2015年を迎えた新年礼拝に与えられたみ言葉は、アカイア州のコリント教会宛てに書かれた手紙文になります。この手紙の送り主は福音を伝えて教会を立ち上げたパウロです。しかし1年8ヶ月の間教会に滞在したパウロが去った後、多くの問題が生じました。パウロはみ言葉の教えに立ち帰ってキリストの体の部分として信徒が一つとなるよう勧めの手紙を送り牧会的指導に努めた教会です。
7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」とあります。「このような宝」とは何でしょうか。前の段落の4節から6節で言われている「福音の光」であるイエス・キリスト、わたしたちの内に輝く光であるキリストを信じる信仰のことです。信仰生活の中心にキリストがおられて、そのすべてはキリストの恵みによって与えられ支えられていることで、キリストこそ、かけがえのない宝であることを知らされます。もろくて崩れやすい素焼きの土器のようなわたしたちにこの宝が納められていると記しています。この宝とは、どんな苦しみにも行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされることのない神から出た力で、キリストの衣を身にまとった土の器である、わたしたちに与えられました。
わたしたちが八方塞になり、望みを失うような経験はこれまで一度や二度ではなかったかも知れません。けれども、どのような事態に至ろうと必ず救われる道が備えられているとみ言葉は教えておられます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実なお方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」と第一コリントの信徒への手紙10章13節にあります。わたしたちが経験する困難のすべては、救いの確かさをより確信させてくださる神さまの試練だといっています。
福音のみ言葉を担わされた者の歩みは、主イエスが十字架上で贖罪の死を遂げられた証人としてイエスの死を身に負うものですが、それと同時に、神のみ業を行う資格のない土の器が、今、この身を通してキリストの死をあらわし、命をあらわすことに用いられて人々に知らせる光栄の業を担わされている、さらに言うと、自分たちは死んで、主イエスの命がこの肉体に現れるためであると言っています。
信仰とは、何の資格のない者が、ただキリストの贖いによって救われたことです。それゆえに、信仰生活は感謝の生活であるはずです。貧しい器がどんなに貴い宝をいただいているかを語らずにいられない驚きと喜びがあります。
ローマの信徒への手紙8章にこのようにあります。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神がすべてを益となさることを、ただ信じて感謝し、神を崇めてご栄光のために生きることです。それが土の器に宝を納めているわたしたちがなすべきことです。( 牧師 丸田 久子)
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