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御言葉に聴く

キリストの復活
2014年イースター礼拝 ヨハネによる福音書20章1〜18節

 ユダヤ教の一日が始まる早朝の六時は暗闇が特に深く感じられる時刻です。そのような時に、夜明けを待ちきれないようにして墓にやって来たのは、マグダラのマリアです。彼女は悲しみと苦しみの極みの境涯を負う人でしたが、主イエスに出会って罪から解き放たれて平安を得た女性です。このマリアにとって主イエスの死は心が引き裂かれるほどの悲しみであったと思います。墓で泣いていたマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか」といわれる主イエスを、マリアは、墓の園丁と間違えています。マリアの名を呼ぶ懐かしい声でそれが主イエスだとわかりました。しかし復活された主が、今、どのような状態にあるのかマリアは全く分かりません。主が戻って来られたと思ったのかもしれません。それはマリアの大きな思い違いでした。復活と言うのは、ラザロのように死んだ者が生き返ることではなく、この世の生活に後戻りすることでもありません。復活とは、永遠の生活に入って行くことですまったく新しく変えられた状態に置かれることです。主イエスと弟子たちの関係が、ただ信じることにおいて、生ける復活の主と交わる新しい関係がはじまることです。そこで主イエスはマリアに一つのことをお命じになります。それは、御自分が永遠の命へと移られたことを弟子たちに知らせるようにということです。

 ヨハネ福音書は復活の証人として、マグダラのマリアの他にペトロとヨハネについて記しています。マリアから空の墓の知らせを聞いた二人は墓に駆けつけています。墓には亜麻布と主イエスの頭を包んだ覆いが置いてあった。聖書は、ペトロはこれを「見た」とだけしるし、ヨハネはこれを「見て、信じた」と書いています。復活とは、死の闇を突きぬけてそこに命の光が輝き出ることです。その光の痕跡を、ペトロは見て、ヨハネは信じたのです。復活を信じるということは、見て、信じる以外のなにものでもありません。

 マリアのキリストの復活の知らせは、弟子たちの堅く閉ざした心を解き放つかにみえました。また彼らは墓で闇の力に僅かに輝く光の痕跡を見て、信じたにもかかわらず「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と九節で言われ、さらに十節で「この弟子たちは家に帰って行った」と言われていて、二人が主の復活を理解していなかったことは明らかです。

 わたしたちの信じる信仰告白が問答形式で書かれているハイデルベルグ信仰問答の問四十五に「キリストの『よみがえり』はわたしたちにどんな益をもたらしますか」とあります。この信仰問答は、キリストの復活がもたらす喜びと幸いは何かと問うています。その答えの一つにこのようにあります。「その御力によって、わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということです」と。キリストの復活によってわたしたちの将来は、ただ暗い墓の中に入ってしまう将来ではなく、復活の光の中で、主に似た者とされる、全く新しい人間とされる、自分の将来を見ることだと言われています。

 マグダラのマリアが、復活の朝、永遠の命へと復活なさった方に出会ったことは、わたしたちの喜びであり、望みでもあったのです。( 牧師 丸田 久子)



教会員の投稿
■安田 志峰

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