「主にあって」とは、使徒パウロの深い信仰の境地を示す言葉です。パウロの手紙の中に40回以上も記されています。ギリシャ語では「エン・クリオー」です。「エン」は「中」の意味です。「主の中に」とはどのような内容なのでしょうか。
信仰の境地を表す3つの言葉があると考えられます。
(1)主(キリスト)の後を歩む
(2)主(キリスト)と共に歩む
(3)主(キリスト)にあって歩む
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第一の境地は、キリストに学び、師として従い、そのみ足の後を懸命に真実に歩む姿です。わたしも敗戦後の空虚の中で聖書のみ言葉にせっし、イエス様に出会い、たとえ転びながらでも、イエス様に従って歩むなら、希望と力が与えられると信じました。
その頃読んだ「キリストにならいて」の書に次の句があり、心に残っています。
「人は二つの羽で天に上げられる。、純真と純潔これなり。純真は意向の中に、純潔は純愛の中にあり、純真は神を志向し、純潔は神抱きて味わう」
私は、このような志を抱いて歩みたいと願いました。
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しかし、私たちは現実のさまざまな課題の中で苦闘し、自身の弱さ、醜さ、罪の深さに苦しまざるをえません。初心の信仰も色あせ、日常生活に埋没して、感動も薄れる時を経験します。私は、そのような中で、もう一度聖書を読みかえしました。
創世記に記されるアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフいずれも様々な人間的な弱さを持ち、苦闘しております。自我の強いヤコブは、父を騙し、兄を押し退け、それ故に孤独の旅に出ます。その旅の野宿で、天からの梯子がかかり、天使が上り下りしている姿を見て、「神が共にいてくださる」事を知ったのです。
聖書に一貫して告げられていることは「神様が共にいてくださる」事です。イエス・キリストの降誕は、その極みのしるしです。私たちの信仰は「インマヌエル・アーメン」です。
これが第二の境地です。
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第三の境地として「主にあって歩む」境地です。日本語で「主において」・「主によって」などと訳されていますが、原典では「エン・クリオー」です。「中」の意味です。
主とはイエス・キリストでる。イエス様の中での意味があります。それは(1)「愛の中で」です。イエス様を通して、私たちは、本当に真実の愛に接しました。自分を与えてほかを活かす愛、「アガペー」の神の愛です。私たちの愛は自己中心な「エロス」の愛から離れることは出来ません。イエス様の愛に浴して、本当の愛を知るのです。
それは(2)「赦しの中で」です。私たちは聖書を通して「罪」を知らされます。自己中心な、我儘な、掟を完全には決して守ることの出来ない、罪深い存在です。自分の力では、この罪から逃れることはできません。この罪人である私を、イエス様が十字架の死で贖って(あがなって)くださったのです。贖うとは、代価を支払う意味です。イエス様の十字架を通して、私たちは「罪を知り、赦しを知る」のです。罪の支配から、恵みの許に自由が与えられるのです。感謝と喜びが溢れています。
それは(3)「恵みの中に」です。私たちの生涯は「イエス様の恵みの中に」あるのです。詩篇23篇は深い信仰の詩です。短い語句に心情が溢れています。
主は良い羊飼い、青草の原に、憩いの汀に伴われる。魂を生き返らせてくださる。正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行く時も、共にいてくださる。
旅する者を天幕に迎えいれ、香油を注ぎ、清くしてくださる。喜びの杯は溢れるのです。
命のある限り、恵みと慈しみが与えられるのです。
イエス様の恵みの中に、私たちは生かされているのです。「主に従って歩む」ことも、「主が共にいて下さる」ことも、「主の赦しの中に生きる」事も、すべては「恵みの中に歩む」事なのです。
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