使徒信条の告白は、「父なる神」がどのようなお方で、「子なる神イエス・キリスト」が何をなさったかが述べられ、そして「聖霊なる神」のところでは聖なる公同の教会を信じ、罪の赦しを信じ、体のよみがえりを信じるとたてつづけに語られています。「聖」という言葉は、教会について多くのことを語っています。教会とはどのようなものであるのか、どうあらねばならないのか。神が教会を信じる者のまことの家としてくださったと言う意味では、教会はわたしたちの所有物ではなく神がまことの所有者であられるということです。そのキリストの体だと言われている教会を信じると言うことは、信じる一人一人がキリストの肢となるということです。それが教会を信じる大切な内容です。それゆえに公同の教会を信じると告白するに至るのです。
公同の教会の「公同」とは、「普遍的」とか「一般的」と言う意味です。教会がイエス・キリストの真の教会としてあらゆる違いを超えて唯一の神を信じることにおいては一つとされているということです。そのうえで、「聖徒の交わり」といわれていることが大切です。「聖徒の交わり」という時、信仰告白に基づいて考えないと誤解を生じてしまうことがあります。聖徒の交わりだから、信仰者が集まれば教会になると安易に思ってしまったり、自分たちの気に入った交わりの仕方をすれば人が集まって教会になるという人間的な思いから親しくなることばかりに一生懸命になって、何人かの人たちだけの居心地のいい交わりをつくってしまうことになりがちです。「聖徒の交わり」とは、そのようなものではありません。それでは「聖徒」とはどのようなことを言っているのでしょうか。神に救われて神のものとされたという信仰によってのみ受けとめることのできる恵みの言葉です。「聖徒の交わり」とは、その中心にはキリストの交わりがあることを言っています。キリストとの交わりの中にあってはじめて「聖徒」の交わりといえる言葉です。ですから、いつでもキリストとの交わりを保っていることが大切です。そうでなければ、聖徒たちの交わりも失ってしまうことになるからです。
教会は、キリストという福音を土台として神が建てられたものです。ですから、何が神のみ旨であるかを礼拝のみ言葉から聞き続け、イエス・キリストが生きて働かれる「聖霊による一致」した謙遜な信仰に基づく神の教会とすることが望まれています。
( 牧師 丸田 久子)
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