「我は・・・信ず」について、これまで「父なる神」、「子なる神」について考えてきました。今度は「聖霊なる神」について考えたいと思います。教会では、礼拝のおわりに「イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祝祷をいたします。ここには、まことの神として教会が信じてきたお方の信じ方が語られています。神を、父・子・聖霊と信じることを、教会は三位一体という表現を用いて語ってきました。この言葉は聖書の中にも信条の中にも語られていません。これはのちの教会が、神がどのようなお方であるのかを説明するために考え出された神学用語です。そのため、実際には難しいことはありません。ただ、三つであってひとつであるとはどのようなことを言っているのかということです。イエス・キリストにおいてご自身を明らかにされる神は、天にいます父なる神であると同時に、地上に来られた子なる神であり、さらに父と子から遣わされてわたしたちの内に住まわれる聖霊なる神であるということです。ここには、決して三人の神々などという理解はありません。わたしたちの信じる神は、常に父・子・聖霊という区別を持って存在するお方なのです。
「聖霊」について思いちがいが起こることがあります。それは聖霊の「聖」という言葉をよく理解しないで神によって受ける力と思いこみ信仰とは、自分の生活の困難を解決することのように考え、そのとき与えられる神の力が、聖霊であると考えてしまうことが起こります。しかし、聖霊はそのような意味の神の力ではありません。「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」とコリントの信徒への手紙(一)12章3節にかかれているように、聖霊は、わたしたちにイエス・キリストは主であると告白する信仰へと導かれる聖霊なる神であります。
主イエスは、この世を去られるときご自分に代わる助け主を送ってくださると約束され、この助け主が主を信じる確かな信仰へと導いてくださる「真理の聖霊」だと語られました。真理とは、独り子イエス・キリストをわたしどもの救いのために十字架にかけてわたしどもへの愛をお示しくださったということです。
聖霊に導かれる信仰生活の中心は、ペンテコステのときに誕生した教会にあります。この教会であるキリストの体の枝々とされ確かな実りの約束を信じる者でありたいと願います。
( 牧師 丸田 久子)
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