ルカによる福音書は、主イエスが弟子たちを祝福しながら天に上げられたと記して終えています。それに続く使徒言行録でも主イエスの復活の後、昇天があったと書いています。主イエスが昇天されたことは、十字架の救いを成し遂げられてそのご使命が終わったことを伝えています。そして、フィリピの使徒への手紙2章9説以下にこのように書かれています。キリスト自らが身を低くされて僕の姿で十字架につかれたので「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と。あらゆる名にまさる名をもたれるのは、神ただお一人です。罪あるわたしたちの救いのために、キリストが、十字架に死なれ、甦られ、天に上げられるのを見て、「イエス・キリストは主である」と言いあらわすとき、すべてのものにまさるお方、神として崇めることができるようになると言うことです。コロサイの信徒への手紙3章1節に「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます」と記しています。キリストに救われて信仰生活をするとき、上にあるものを求めるのは、自然なことです。「上にあるもの」というのは、地上のことではなく信仰による世界のこと、神の右に座すキリストが神と共に支配されるところです。わたしたちのために、キリストがいつもとりなしをしてくださっているところです。
キリストが、天に昇られた後、助け主が与えられると約束されています。それはキリストの名によって使わされる聖霊です。この聖霊に導かれて世の終りまでキリストが共におられることを信じることができるのです。
使徒言行録の1章11節に「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と言われています。キリストが再び来られるとき、それは世の終末のときです。終末とは、この世界が自然に滅びるということではなく、神がこの世を終わらせることです。終末は、神がみ心をこの世に完全に現されるために審きをを行なうことでもあります。それゆえに、「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言われるのです。しかし、その時は、天にのぼられた主が救いを完成するために再び来られる望みの日になるのです。天に上げられたキリストこそ、わたしたちの希望なのです。
( 牧師 丸田 久子)
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