主イエス・キリストの十字架の死は、弟子たちの希望を失われるものだったと思います。そのことは、十字架の下に12弟子の誰一人としていなかったことによく表されています。ところが、その弟子たちが「主イエスの復活の証人」だと使徒言行録は記しています。沈黙していた弟子たちが五句祭の日に降った聖霊の力によって、主イエスは復活されたと心から信じて語り始めたのです。この信仰によって教会は生まれました。わたしたちの信仰にとって、キリストが3日目に復活されたことは、教会が立ちもし倒れもする重要なものであることがわかります。パウロは、第1コリントの15章14節で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」と言っているように、わたしたちが救われるためにはキリストの十字架の死と、さらに復活によって救いが完全なものになることです。この復活を信じない信仰についてパウロは19節で「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中でも最も惨めな者です」と言っています。この当時も、今日のわたしたちにも共通するのは、「復活は事実なのだろうか」という問いです。聖書の中には、死んで生き返った人の話が書かれています。ルカによる福音書のナインの町のやもめの息子や、ヨハネによる福音書のマルタ、マリヤの兄弟ラザロなどは、死んでいたのに主イエスによって生きかえりました。これらの出来事と主イエスの復活との違いは、ナインの息子やラザロは、たとえ生き返っても再び死んで葬られました。しかし、主イエスは、死んで葬られ、陰府に下り、と使徒信条に語られているように完全に死なれて3日目に復活されました。復活された後、再びしなれるというようなことはありません。ここには決定的な違いがあります。このことをパウロは、「自然の命の体で蒔かれて、霊の体で復活する」と第1コリント15章44節で言っています。霊の体としか表現しようのない体を持たれて復活されました。その恵みによって、わたしたちも霊のからだを持って復活するようになると言われているのです。死が滅ぼされ、新しい生命が与えられたのです。このお方が、完全に死んで、生き返られたことを信じる者に、復活の望みが与えられているのです。その恵みの中に生かされていることを感謝し、喜び、歩み続ける者でありたいと願います。
( 牧師 丸田 久子)
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