使徒信条は、わたしたちの信仰にとって欠かすことのできない聖書の真理を簡潔に語っているものです。その第1項では、神について語り、第2項ではイエス・キリストについて語っています。そのキリストの誕生を語ったのち、その苦しみと死について語り始めています。降誕のあと、主イエスがどのように成長したのかなど何も書かないで、すぐ公生涯に入っています。それは、地上での主イエスの生涯の歩みが十字架の「苦しみを受け」という一つの言葉で言い表されるほどのご生涯であったと言うことです。神のみ子が人となられたそのご生涯は「苦しみを受け」の一言で言い尽くされていると言うことです。世に来られた神のみ子が、わたしどもの罪の苦しみを一身に引き受けられたという驚くべきことは、わたしどもに対する愛のゆえで、その罪の重荷のすべてをご自身に引き受けられ、十字架の代価のすべてを負ってくださった死でありました。十字架はその贖いの死の象徴であり、教会の信じるべきしるしとするものです。この十字架のある所、そこに教会があるのです。救い主イエス・キリストを指し示すのが教会の十字架です。救いに与ったわたしどもにとって十字架はそれほどの大きな恵みであったということでもあります。
使徒信条は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」といっています。ピラトという人物は、歴史に残るような重要な働きをした人物ではありませんでした。その彼の名が信条に記されたのは、彼が実在の人物であって、このピラトの時代に十字架の救いが神によって成し遂げられた。その救いを信じるべき確かなこととして記されたのです。神の救済のご計画がわたしたちの歴史の同一線上で完成したということでもあります。
「死んで葬られ」と語られていることは、主イエスが、本当にわたしどもと同じように死なれたこと、本当に死なれて「陰府にくだり」と言われています。その陰府に3日のあいだキリストが行かれたと言うのです。陰府とは、死者が一時とどまる闇の世界です。この神の手は届かないだろうと思われているところにキリストは下られたのです。このことについてIペテロの手紙3章19節に、「霊においてキリストは、捕らわれてた霊たちのところへ行って宣教された」と書かれています。陰府に捕らわれている人たちのところまで行ってキリストは福音を語り聞かせたと言うのです。感謝すべきは、福音を知らない陰府の捕らわれ人もまた、キリストの恵みの内にあると言うことです。
( 牧師 丸田 久子)
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