2011年12月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉

使徒信条(7)「苦しみを受け・・・陰府にくだり」
 使徒信条は、わたしたちの信仰にとって欠かすことのできない聖書の真理を簡潔に語っているものです。その第1項では、神について語り、第2項ではイエス・キリストについて語っています。そのキリストの誕生を語ったのち、その苦しみと死について語り始めています。降誕のあと、主イエスがどのように成長したのかなど何も書かないで、すぐ公生涯に入っています。それは、地上での主イエスの生涯の歩みが十字架の「苦しみを受け」という一つの言葉で言い表されるほどのご生涯であったと言うことです。神のみ子が人となられたそのご生涯は「苦しみを受け」の一言で言い尽くされていると言うことです。世に来られた神のみ子が、わたしどもの罪の苦しみを一身に引き受けられたという驚くべきことは、わたしどもに対する愛のゆえで、その罪の重荷のすべてをご自身に引き受けられ、十字架の代価のすべてを負ってくださった死でありました。十字架はその贖いの死の象徴であり、教会の信じるべきしるしとするものです。この十字架のある所、そこに教会があるのです。救い主イエス・キリストを指し示すのが教会の十字架です。救いに与ったわたしどもにとって十字架はそれほどの大きな恵みであったということでもあります。

 使徒信条は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」といっています。ピラトという人物は、歴史に残るような重要な働きをした人物ではありませんでした。その彼の名が信条に記されたのは、彼が実在の人物であって、このピラトの時代に十字架の救いが神によって成し遂げられた。その救いを信じるべき確かなこととして記されたのです。神の救済のご計画がわたしたちの歴史の同一線上で完成したということでもあります。

 「死んで葬られ」と語られていることは、主イエスが、本当にわたしどもと同じように死なれたこと、本当に死なれて「陰府にくだり」と言われています。その陰府に3日のあいだキリストが行かれたと言うのです。陰府とは、死者が一時とどまる闇の世界です。この神の手は届かないだろうと思われているところにキリストは下られたのです。このことについてIペテロの手紙3章19節に、「霊においてキリストは、捕らわれてた霊たちのところへ行って宣教された」と書かれています。陰府に捕らわれている人たちのところまで行ってキリストは福音を語り聞かせたと言うのです。感謝すべきは、福音を知らない陰府の捕らわれ人もまた、キリストの恵みの内にあると言うことです。 ( 牧師 丸田 久子)



教会員の投稿
■榎本 久美江 

予算・献金・募金
 会計という奉仕を、半田教会の時代から数えると何十年に渡ってさせて頂いてきた。半田教会の時代はまだコンピューターなどなく、計算はソロバンで、自分で罫線を引き手書きで記入していた。毎月の会計報告の頃になると、特に予算・決算の頃になると、勤務を終え家に帰ると、母との会話もそこそこに部屋に閉じこもり作業をしたものだった。そんな私を見て母は、「教会はあんたにばかり仕事をさせているのか、もっと皆で分担したらいいのに」と言っていたのを思い出す。そう言っていた母が62歳になって受洗した。神様の働きはほんとうにすごい。

 あのころから思えば雲泥の差とも言える便利さになった。計算はすべてやってくれるし、消しゴムを使う必要もなくなった。しかも、退職してからは時間的にゆとりが出来たはずで、量的にもCS会計や他教会支援基金を戸田姉に委ねて少なくなっているはずなのに、あまりそれを感じない。年齢のせいでやる事が遅くなったのか? 来年度からは、役員の任期制が考えられているので、会計という奉仕について思いをいたしてみた。

 榎本保郎牧師(通称ちいろば牧師)の「一日一章」を読んでいて、こんな一文にであった。『なぜ献金するのかと聞かれたとき、費用がいるからと考えるのはまちがいである。献金は、会費やカンパ、分担金ではない。・・・予算のために私たちは献金してささげていくのではない。私たちの教会への献金は、・・・イエスが私のために死んでくださったということに対する神への応答でなければならない。』(マタイ18の章より)

 「豊かにまく者は豊かに刈り取る」たくさん献金したらたくさん報われる?これについても、『それでは資本を投入して利潤を得る企業の活動と同じである。献金とは目的のためにするのではなく、献金自体が目的である。けれども、そのことによって多くの祝福が与えられるのも事実である。だが、いただくためにするのではない。もうすでに多くのものをいただいたことに対する感謝のしるしが献金である。』また、『献金は神の祝福を受ける条件ではなく、神と自分とを連結する管だということである。』と。そして、『献金と募金との混同を避けたいものである。・・・この献金は何々のためという時、それは募金である。』と、そして、『クリスマス献金とは、イエス様の誕生への感謝である。それが何に使われようが関係のないことである。あのことに使われるか、それならこれぐらい出さねばというのは募金である。』と。(コリントTT9より)

 私はこの提言にどう答えているのか?


■安田 志峰

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