使徒信条は、父なる神について語る第1条と呼ばれる部分に続いて「主イエス・キリストを信ず」と、主イエスへの信仰を表す第2条の第2項に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」とあります。
それは、処女であったマリヤから御子が誕生したことを信じると言うことです。そのことが聖霊によって起こったということはとても重要です。聖書でこの事実を記しているのは、マタイによる福音書1章18〜24節と、ルカによる福音書1章26〜38節です。福音書の中で最初に書かれたと言われているマルコも、一番あとに書かれたヨハネもこのことについて何も記してはいません。はじめの頃は、ユダヤの片田舎のナザレの村の出来事としてあまり問題にされない、特に書きとめる必要を感じなかったのかも知れません。あるいは偉人に見られるように特別な存在として神秘的な誕生としたのかもしれませんが、聖書は、素直にこのような事実があったとだけ告げるだけで、それによって何かを付け加えるようとしません。「聖霊によってやどり」によって、この誕生の出来事に聖霊なる神の力が働いておられることが明らかです。
「処女マリヤより生まれ」のこの信条が証言している正しい信仰は、キリストが神であるとともに人間であるということです。しかし、この信仰を守るために2つの問題がありました。その一つは、キリストを神とあがめても人間であるとは信じられない、汚れた肉体である人間の姿をとられるはずがないという考え方です。もう一つは、キリストを神の子と信じない、ただの人間であると考えることです。紀元32年にニケヤ会議という最初の教会会議が開かれたときにも大きな問題として議論されました。しかし、聖書はキリストが神の子であること、その誕生に神の力が働いておられること、その神秘性を現実のこととして語ろうとするのです。信条はそれを伝えているのです。それはイエス・キリストに対する正しい信仰を明らかにすることです。イエスはキリストである、と言う信仰を迷うことなく、しっかり告白することです。
イエスがキリストであるということは、イエスが神の子であるということ、その神の子が人間になられたということです。人間の力や自然の方法によってこの世に来られたのではなく、ただ神のみ心にあるご計画に従って遣わされたみ子です。このみ子はわたしどもと全く等しい人間となられてお生まれくださり十字架につかれた、わたしどもの救い主であるお方です。( 牧師 丸田 久子)
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