2011年11月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉

使徒信条(6)「処女マリヤより生れ」
 使徒信条は、父なる神について語る第1条と呼ばれる部分に続いて「主イエス・キリストを信ず」と、主イエスへの信仰を表す第2条の第2項に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」とあります。

 それは、処女であったマリヤから御子が誕生したことを信じると言うことです。そのことが聖霊によって起こったということはとても重要です。聖書でこの事実を記しているのは、マタイによる福音書1章18〜24節と、ルカによる福音書1章26〜38節です。福音書の中で最初に書かれたと言われているマルコも、一番あとに書かれたヨハネもこのことについて何も記してはいません。はじめの頃は、ユダヤの片田舎のナザレの村の出来事としてあまり問題にされない、特に書きとめる必要を感じなかったのかも知れません。あるいは偉人に見られるように特別な存在として神秘的な誕生としたのかもしれませんが、聖書は、素直にこのような事実があったとだけ告げるだけで、それによって何かを付け加えるようとしません。「聖霊によってやどり」によって、この誕生の出来事に聖霊なる神の力が働いておられることが明らかです。

 「処女マリヤより生まれ」のこの信条が証言している正しい信仰は、キリストが神であるとともに人間であるということです。しかし、この信仰を守るために2つの問題がありました。その一つは、キリストを神とあがめても人間であるとは信じられない、汚れた肉体である人間の姿をとられるはずがないという考え方です。もう一つは、キリストを神の子と信じない、ただの人間であると考えることです。紀元32年にニケヤ会議という最初の教会会議が開かれたときにも大きな問題として議論されました。しかし、聖書はキリストが神の子であること、その誕生に神の力が働いておられること、その神秘性を現実のこととして語ろうとするのです。信条はそれを伝えているのです。それはイエス・キリストに対する正しい信仰を明らかにすることです。イエスはキリストである、と言う信仰を迷うことなく、しっかり告白することです。

 イエスがキリストであるということは、イエスが神の子であるということ、その神の子が人間になられたということです。人間の力や自然の方法によってこの世に来られたのではなく、ただ神のみ心にあるご計画に従って遣わされたみ子です。このみ子はわたしどもと全く等しい人間となられてお生まれくださり十字架につかれた、わたしどもの救い主であるお方です。( 牧師 丸田 久子)



教会員の投稿
■榎本 久美江 

ケセン語訳聖書
 仲田姉からケセン語訳の「ヨハネによる福音書」を紹介され、CD(3枚に納められている)を聴く機会を得た。はじめはさっぱりわからなかったが、以下のように書かれている解説を読み、まるでラジオ放送劇のような朗読を聴いて圧倒されてしまった。

 まず、「イエス・キリスト」ではなく、ヤソ・キリストと訳されていること。その理由を山浦氏はこう述べている。『キリスト教徒は昔はキリシタンと呼ばれて迫害され、近過去にはヤソと呼ばれて国賊の扱いを受けたのでした。その忌み嫌われた名前を私はイエスのケセンにおける名前として採用しました。なぜなら、そこにこそ神様の「栄光」があると福音書は言うからです。「大工が棄てた痩せ丸田」が「大黒柱」になるのです。人々から蔑まれ棄てられ、踏みつけられたものにこそ、神さまの救いの輝きが宿っているのです。そこにこそ、まことの救いがあり、それを通らない救いはあり得ないと、イエスは言うのです。』

 この聖書では、ヤソのみでなく、あえて不快用語(差別用語)を用いている。それについてはこう言われる。『差別に泣いた人々の苦しみを真正面から受け止めて、その中にキリストの十字架と復活の救いを見出そうとするからです。「臭いものに蓋」ではなく、差別に苦しめられた人の心の傷と、差別によって人を苦しめた人の心の傷を、ともにしっかりと見つめて、そこからあらたな命へと生まれ変わってゆく、そうした営みにとって、これは避けては通れないことだと思うからです。』

 「癩」を重い皮膚病と訳すことについても、こう言われる。『「重い皮膚病」の方がどんなに気が楽かもしれません。人も傷つけないかわりに、自分もまた傷つきません。でも、それでは、あの苦難の歴史を、無害な、きれいな言葉によって隠蔽してしまうことになります。イエスの言葉を引用すれば、「表面だけは美しく白く塗りたくった墓場」に葬ることになります。これでは、この病気に苦しんだ人々に対して、まことに不誠実ではありませんか。まして、イエスの時代には「差別用語」などという概念すらも存在していません。』

 「はじめによいものござる」と訳された聖書、「初めに言があった。」と今の聖書、そして「初に在ったのア神さまの思いだった。」とケセン語訳。聖書の訳はこんなにも深いものなのだ。

<<ケセン語訳新訳聖書 山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)より>>


■安田 志峰

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