2011年10月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉

使徒信条(5)「そのひとり子、われらの主イエス」
 ローマの信徒への手紙8章15節に「この書によってわたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」と言われています。救いに与ったわたしたちは、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになると言っています。「アッバ」とは、、アラム語で「父」と言う意味です。幼い子どもが親しみを込めて「おとうちゃん」と父親を呼ぶように、わたしたちも親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。子でない者が子として「父」と呼ぶことを赦されているということです。それに対してイエスは、はじめから「神の子」神の実子なのです。神に作られた他の被造物とは全く違っていて、神の「ひとり子」として生まれたお方は、ただこのお方一人だけだということです。マタイによる福音書11章27節に「父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とあります。ここにはこのお方と父との関係が、正しく言い表されています。神の子はだれよりも神を父として知っておられ、ご自身で神を現すことがおできになる方だと言っています。十字架の極みに至るまで、み心に従い通されたこのお方を神は「キリストは主である」と、あらゆる人々がひざまずいて崇め、讃美するようになさいました。

 「主」というのは、初代の教会の最も重要な語句で、ヘブライ語の神名「ヤハウェ」を表しています。

 「主」とは、主人のことです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とマタイによる福音書10章28節に言われているように、真の主人とは、わたしたちの存在そのものを支配されるお方で、信頼に値する確かなお方です。信頼があって初めてわたしたちは主と呼ぶことが出来るのです。み子を信じるということは、み子を主と信じ、主として仕えるということです。使徒信条は、このようにイエス・キリストを信じるのにひとり子を主と結びつけて告白していることがわかります。つまり、わたしたちすべての人間を救われるために、イエス・キリストにおいて永遠なる神ご自身がわたしたちと同じ罪の姿をとられて十字架の死を受けられ、十字架の道をたどられた、この主の愛のみ業の内にこそ、み子の姿を見ることが出来るのです。救い主に感謝し、み名を崇めたいと思います。( 牧師 丸田 久子)



教会員の投稿
■生田 三枝子 

受洗願書
 キリスト教を知ったきっかけはFEBCの放送です。6年以上も前のことです。拝聴しているうち神を求めるようになりました。教会生活は3年10ケ月になります。その間、神に導かれ多くの方々にも支えられ、受洗への道を歩ませていただきました。すべてに感謝あるのみです。

 15年前、私はあることによって完全に打ちのめされてしまいました。大抵のことは何とか切り抜けて生きてきたという自負がありましたのに、その時ばかりは立ち上がるのはかなり困難でした。

 そんな私を見兼ねた友の誘いで、気分転換に山登りを始めました。しかし、いつまでたっても回復できませんでした。

 また、17文字の言葉を綴ったりもしました。心を見つめ、社会を見つめるという点で冷静になりましたが、文化の歪みに直面し、更なる悩みを抱え込みました。

 どのようにしたら人は救われるのかと長い間自問自答しました。そして、お互い不完全な者だから許し合い認め合い愛を育ててゆく以外にないと気づいたのです。

 そんな後、キリストに出会い、その教えに心打たれました。神の愛の深さ、私の人間の罪の深さに全く言葉を失いました。今、振り返ってみれば、神に出会うために生かされてきたように思います。そして、計り知れない神の御心を知るために生かされてゆくのだと思います。

 このように未熟な私でも、神の救いに与ることができました。神を信じることに喜びを感じます。神を信じることの中に本当の自由があるような気がします。

 よって受洗を希望致します。

 <<生田三枝子は、去る10月2日(日)に丸田久子牧師式のもと豊田教会で受洗されました>>


■安田 志峰

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