ローマの信徒への手紙8章15節に「この書によってわたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」と言われています。救いに与ったわたしたちは、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになると言っています。「アッバ」とは、、アラム語で「父」と言う意味です。幼い子どもが親しみを込めて「おとうちゃん」と父親を呼ぶように、わたしたちも親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。子でない者が子として「父」と呼ぶことを赦されているということです。それに対してイエスは、はじめから「神の子」神の実子なのです。神に作られた他の被造物とは全く違っていて、神の「ひとり子」として生まれたお方は、ただこのお方一人だけだということです。マタイによる福音書11章27節に「父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とあります。ここにはこのお方と父との関係が、正しく言い表されています。神の子はだれよりも神を父として知っておられ、ご自身で神を現すことがおできになる方だと言っています。十字架の極みに至るまで、み心に従い通されたこのお方を神は「キリストは主である」と、あらゆる人々がひざまずいて崇め、讃美するようになさいました。
「主」というのは、初代の教会の最も重要な語句で、ヘブライ語の神名「ヤハウェ」を表しています。
「主」とは、主人のことです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とマタイによる福音書10章28節に言われているように、真の主人とは、わたしたちの存在そのものを支配されるお方で、信頼に値する確かなお方です。信頼があって初めてわたしたちは主と呼ぶことが出来るのです。み子を信じるということは、み子を主と信じ、主として仕えるということです。使徒信条は、このようにイエス・キリストを信じるのにひとり子を主と結びつけて告白していることがわかります。つまり、わたしたちすべての人間を救われるために、イエス・キリストにおいて永遠なる神ご自身がわたしたちと同じ罪の姿をとられて十字架の死を受けられ、十字架の道をたどられた、この主の愛のみ業の内にこそ、み子の姿を見ることが出来るのです。救い主に感謝し、み名を崇めたいと思います。( 牧師 丸田 久子)
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