2011年9月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉

使徒信条(4)「主イエス・キリストを信ず」
 使徒信条は、わたしたちキリスト者が皆共通に言い表す信仰の言葉です。その初めに、「全能の造り主」なる神への信仰について語られていました。そしてここでは、「イエス・キリストを信じる」と記され、信条の終わりには、「我は聖霊を信じる」と告白しています。つまり、父・子・聖霊の神、三位一体の神として、この「イエス・キリストを信じる」と告白されているのです。それは、主イエスを神として信じるといっていることなのです。

 お気づきのように、イエス・キリストへの信仰告白が、神と聖霊の告白に挟まれながら、その大半を占めて語られています。わたしたちが神を父として、また神を聖霊として心から理解するのは、イエス・キリストを信じる信仰を通してのみ知らされることだからです。

 「イエス・キリスト」の「イエス」とは、ユダヤ人の間ではごくありふれた名前の一つでした。それは「神は救い」という意味で、ヘブライ語ではヨシュアという旧約聖書に出てくる名前です。主が「イエス」という普通の名をとられたのは、わたしたちと同じ人間になられたということです。

 キリストは、ヘブライ語ではメシア「救い主」と言い、ギリシャ語で「油注がれた者」と言う意味です。王や祭司、預言者が、その職に就くとき、神に聖別された者として油注がれたことに由来しています。イエス・キリストとは、イエスはメシア、救い主キリストと言うことです。当時ユダヤの社会には、救い主を待望するメシア運動が盛んでした。その中にあってキリスト教徒は、このイエスこそまことの救い主だと信じたのでした。

 ピリポ・ カイザリアで、主イエスは、自分を誰だと思うかと聞かれたとき、弟子たちを代表してペトロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰告白しました。ペトロが、主イエスを正しい救い主と告白に至ったのは、父なる神に示されたことによります。なぜなら、立派な信仰を告白したペトロは、その後、十字架のご苦難を予告された主イエスを弟子であるペトロが戒めると言う本末転倒の姿を悪魔の働きと叱られています。神のみ心を思わないで、人間の思いがそこにあったからです。ペトロと同じように不信仰なわたしどもを救われるために、人間の姿をとられて世を歩まれた、主イエスの真実を感謝して受け止めたいと思います。( 牧師 丸田 久子)



教会員の投稿
■久保地 順子 2011年8月21日証

音楽の門から
 音楽に触れ、人生の扉が開かれたのは中1の時だった。音楽の授業、教室にあるグランドピアノ、それを弾く上級生、その美しい世界に心打たれたのだった。友人に「わたしもやりたい」と言うと、「じゃあ、みてあげる」と毎日優しく教えてくれた。以来1年のほとんどをピアノのお稽古のため遠くの学校に通う私に、母は赤い自転車を買ってくれた。父は私が4才の時太平洋戦争で戦死していて、母は小学校の教師をしていた。生徒のためになるからとグランドピアノを生徒に使わせていたこの中学の校長はクリスチャンだと聞いた。クリスチャンということばをはじめて聞いた時でもあった。

 高校生になって進学のため正式にレッスンを受けようとした時、先生から「音楽をやるなら、一度教会に行っておくように」と言われ、近くにあった伝道所の門をくぐった。高知教会から吉田牧師、内藤伝道師がみえ、はじめてのクリスマス礼拝にも出席し感動を覚えた。3月大学に立つにあたって私の為に「生涯にわたって共にいてくれますように」と祈ってくれた。うれしく、いつかは教会へ・・・と思った。

 大学では「音楽のはじまりの一つは神に祈る心からで、これが教会音楽、クラシック音楽になった」と言われ、演奏家にはなれなくても「良い母親になれる:怒るのでなく、忍耐をもって音楽で育てる」こと、また「良い聴衆になるように:立見席でよい、音楽会に行くように」と言われた。ピアノレッスンはバッハの専門家で教会のオルガニストもしている先生で、音感がついていない私を親切に教えてくれた。2年間、甲子園のそばにある寮で生活し、朝授業前に練習し、授業が終わるとまた練習した。卒業後、中学校で音楽の教師をするのが目的であったので、採用試験には合格してもコネがないと就職が難しいといわれ、教育委員会に直に毎日頼みに行き中学校に勤めるようになった。

 その頃、夫となる人と出会った。ものの見方、考え方が全然違うので「もっと気楽な人を」と思ったが、母子家庭で育った寂しさから家族揃っての家庭生活に憧れ、 乞われて結婚、豊田に来た。調律を頼んだのがきっかけで、家庭でピアノのレッスンをするようになり、あれだけ目指した中学の教師を3年でやめてしまった。

 3人の子を授かり、言われた通り音楽で育てた。ある時子どもから「キリストってなあに?」と聞かれた。与えた本に「これ以上キリスト教について知りたい方は、近くの教会に・・・」とあったので、平井姉に頼んで、山之手にあった豊田教会へ行くようになった。31才になっていた。CSの時間、親たちは尾田兄から聖書を学んだ。佐藤牧師から中澤牧師になった時、奏楽者として用いられるようになった。

 やがて高橋姉のご主人の葬儀にみえた原牧師に出会って、自分の罪を知らされ、これは受洗しかないと思って受洗した。私は父をはやくなくし叱られることがなく育った。母の手伝いをするいい子でもあった。物事は自分で決めてきた。それが自分本位、自分勝手にもなっていた。夫の母から「あんたが理介を怒らせる」と言われたが、半分は本当だった。相手の気持ちを考えず傷つけていたのに気付かされたのだった。夫の激しさに悩んで詩篇にあるように「夜毎、枕が涙でぬれる」の時であった。そんな私に原牧師は、「社会の第一線で働いているご主人を、あなたが愛してあげてほしい」といわれた。

 喜びもあった。子ども達を育てる喜びだ。たくさんの曲を練習し、ピアノ、ヴァイオリンを演奏する子どもたちに囲まれていた15年以上の時は、今も私の宝物である。

 51才になった。子ども達がみな巣立って淋しくなった二人は、海外旅行に出かけるようになった。ワシントンの教会で礼拝後皆と親しく交わっている私を見て息子が「クリスチャンってすごいね。」と言った。ピラミッドの中で暗闇の中、ドイツ人たちとハーモニーを楽しんだりもした。

 60才になり、夫の癇癪がピタリとやんだ。会社でも責任ある地位を与えられほっとしたのもつかの間、夫が軽いパーキンソン病と診断された。

 今年71才になった。狭き門ならぬ音楽の門をくぐって、今奏楽者としてこの場にある。いやなこともあるが、楽しいこともいっぱいある。神様から楽しくいきいきと生きていくようにと・・・。今日まで守り導いてくださったことを感謝し、この証を執り成して正しく伝えてくださいと祈る。<要約文責:久美江>カセットテープがあります。

■安田 志峰

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