使徒信条は、わたしたちキリスト者が皆共通に言い表す信仰の言葉です。その初めに、「全能の造り主」なる神への信仰について語られていました。そしてここでは、「イエス・キリストを信じる」と記され、信条の終わりには、「我は聖霊を信じる」と告白しています。つまり、父・子・聖霊の神、三位一体の神として、この「イエス・キリストを信じる」と告白されているのです。それは、主イエスを神として信じるといっていることなのです。
お気づきのように、イエス・キリストへの信仰告白が、神と聖霊の告白に挟まれながら、その大半を占めて語られています。わたしたちが神を父として、また神を聖霊として心から理解するのは、イエス・キリストを信じる信仰を通してのみ知らされることだからです。
「イエス・キリスト」の「イエス」とは、ユダヤ人の間ではごくありふれた名前の一つでした。それは「神は救い」という意味で、ヘブライ語ではヨシュアという旧約聖書に出てくる名前です。主が「イエス」という普通の名をとられたのは、わたしたちと同じ人間になられたということです。
キリストは、ヘブライ語ではメシア「救い主」と言い、ギリシャ語で「油注がれた者」と言う意味です。王や祭司、預言者が、その職に就くとき、神に聖別された者として油注がれたことに由来しています。イエス・キリストとは、イエスはメシア、救い主キリストと言うことです。当時ユダヤの社会には、救い主を待望するメシア運動が盛んでした。その中にあってキリスト教徒は、このイエスこそまことの救い主だと信じたのでした。
ピリポ・ カイザリアで、主イエスは、自分を誰だと思うかと聞かれたとき、弟子たちを代表してペトロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰告白しました。ペトロが、主イエスを正しい救い主と告白に至ったのは、父なる神に示されたことによります。なぜなら、立派な信仰を告白したペトロは、その後、十字架のご苦難を予告された主イエスを弟子であるペトロが戒めると言う本末転倒の姿を悪魔の働きと叱られています。神のみ心を思わないで、人間の思いがそこにあったからです。ペトロと同じように不信仰なわたしどもを救われるために、人間の姿をとられて世を歩まれた、主イエスの真実を感謝して受け止めたいと思います。( 牧師 丸田 久子)
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