教会は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻の全66巻を「唯一の正典」と読んでいます。その最初の「創世記」では、人間が神を信じて生きるとはどのようなことかという信仰を教えています。人間は、自分を誇り自分の力で生きているように思っているところがあります。是に対して、コリントの信徒への手紙(一)4章7節に、「あなたをほかの者たちよりも、優れたものとしたのは、だれですか。一体あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」といわれています。わたしたちの持っているものは、だれからいただいたものなのか、今生きているのは、だれのはからいによるのか。神が造り主であるという信仰はこの問いに対して正しく教えるものです。
神が造り主と信じて生きるとき知らされるのは、神がわたしの主人だと言うことです。主人として心から神により頼むのとき、自分を誇らず、心配ごとや悲しみのすべてを、この神にお委ねして生きて行くことができるのです。自分を誇らず、神のものとして神に従う生活が与えられるのではないでしょうか。それと共に、自分と神がまったく区別されるものであることを知らされます。神とは全く違う人間として、神に心から従うものでなければ、神の前に正しい者とはみなされません。
この造り主は、また、全能の造り主でもあります。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)と主イエスは言われました。それは、たとえ富んでいる者であっても、悔い改めがあるなら、神の国に入れるように、人間を救うことができるということです。神が全能であるというのは、わたしたち人間に限りない好意を持っておられるということです。その愛のゆえに、たとえわたしたちに失敗があっても、必ず救ってくださるお方で、決して、わたしたちの期待を裏切ることのないお方です。
宗教改革者カルヴァンは、『ジュネーヴ教会信仰問答』の最初で、「人生の特に目ざす目的は何ですか。」と問いました。その答えは、「人をお造りになった神を知ることです」と言っています。それについて、「神がわたしたちを創造され、この世界に置かれたのは、わたしたちによってご自身が崇められるためでありました。しかも、わたしたちの生は神御自身がその初めであられるのですから、神の栄光にこれを帰するのは当然であります。」と説明しています。神を知るということは、私たちが礼拝で神の御名を崇め、神に生かされている生活をすることです。
( 牧師 丸田 久子)
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