教会の礼拝は、祝祷をもってその式順を終えます。祝祷は本来、「祝福の祈り」とか「派遣の祝福」として、その多くは聖書に見られる言葉が用いられます。わたしたちの教会の祝祷は、民数記の6章24〜26節の「アロンの祝福」とコリントの使徒への手紙(二)13章13節の「三一論祝福」を用いています。「三一論祝福」というのは、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三つのもので、神からの祝福を表しています。そのことを「三位一体」と言います。別の言葉で、三位格一実体」とも言います。父・子・聖霊の三つの位格とは、一実体である神が、神であるための三つの在り方のことです。神ご自身が、父・子・聖霊なる永遠の存在であるということです。豊かなその神を信じるというのは、わたしが愛されていることを心から信じて信頼し、すべて委ねて生きることです。ところが、そのように生きようとするとき、いつもわたしの罪がじゃまをします。こんな罪深いわたしが神を信じるようになるために、キリストは十字架上で死んでくださったのです。ですから、神を信じるには、キリストに救われることが必須のことなのです。ヨハネの手紙(一)2章23節に、「御子を認めない者はだれも、御父にも結ばれていません。御子を公に言い現す者は、御父にも結ばれています」と言われているように、祝祷の言葉は、キリストから言いはじめられることになるのです。神が父であると信じるのは、イエス・キリストと深く関わっていることがわかります。この主イエス・キリストを通して罪赦され、神を信じ、そして神を父と信じるものにされるのです。わたしどもを愛してやまない神は、その一人子を世に降され、その恵みによってわたしどもは神を父と呼ぶことを許されるのです。
主イエスは、よく静かな所で祈られるお方でした。そして祈りのとき、「アバ、父よ」と神に呼びかけられています。この「アバ」というのは、ユダヤの子どもたちが「お父ちゃん」と父親を呼ぶ時の言葉です。主イエスと同じように、わたしどもも親しみを込めて神を「アバ、父よ」と呼ぶことのできる恵みが与えられました。そのように神を父と呼んで信頼し、神と共に生きたいと願うとき、自らの罪を悔い改め神のもとに立ち帰ってゆくことが必要です。それがなければ神を父と呼ぶことはできません。神は、背く者が絶ち帰る日を忍耐深く待ち望んでおられるお方です。このような神を信じることが、どんなに確かで、安心できるものか、改めて感謝して受けとめたいと思います。
( 牧師 丸田 久子)
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