2011年3月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおれない。
出エジプト記20章7節(新共同訳)
 第3の戒めは「主の名」についてです。この「名」を「みだりに」唱えるのはよろしくないとの戒めです。

 主の名を呼ぶ、神様との関係はこれを抜きには成り立ちません。名を呼び求めることは必要なのです。主イエスご自身、どう祈ったらよいかを示すために「主の祈り」を教えてくださっていますが、「天にましますわれらの父よ、」と呼びかけから始まっています。神様を信じるものはその御名を唱え、呼び求めることをせずにはいられないのです。第3の戒めの強調点は、御名を唱えてはならないというのではなく、みだりに唱えてはならない、というのです。

 では「みだりに」とは、どういうことでしょうか。日本の生活習慣の感覚からしますと、様々な神様がいて、自分の都合に合わせて赤ちゃんが生まれれば神社にお参りに行き、結婚となるとキリスト教の形で聖書の言葉を聞く式を好み、死ぬとなると仏教のお世話になって仏様になってゆく、そういう生活が違和感なくできる社会になっています。「みだりに」−ひとつは何でもかんでも神様と呼ぶのは止めましょうということです。あまりに目くじらを立てる必要はないと思う人が多いかもしれませんが、行き当たりばったりで当然のことのように自分の都合で神様の御名を唱え、呼ぶのは自分に仕えさせる神様を作ってゆくことです。

 私たちは、神様を自分の都合の側に引き寄せて、いわば神様を利用しかねないようなことをしばしばしてしまいます。自分の都合のために、自分の勝手な利益のために御名を唱えるなら、やたらな事をしているのですから「みだりに」が入っています。

 旧約の時代は、時々に、族長、先見者、土師、預言者、神様に対して素直でありたい祭司たちは、神様を畏れ敬うことをテーマにしていたとも言えそうです。神様の名を呼ぶことすら、畏れ多いというほど、神様中心でした。ギリシャ神話などで神々に名があります。聖書の神様も、唯一なる方ですが名前がありました。恐れ多くて名前を呼べないということでその名を口にしないで過ごしていましたらいつしかその名は何であったろうかと分からなくなってしまったというほどです。それほどに畏れ敬いをもって主の名を思う人々がいたということです。

 主を呼び求める、それは主がまずいてくださって私たち人間を作り、神様の栄光を仰ぎ見る者としてくださっている、その方をその呼び求めるのです。私たちのすべては主の御名によって始められていることをこの戒めは教えています。

( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■岡田 信子

2011年2月13日(日)信徒証し礼拝
「子ども達に育てられて」 I コリント13:4-13

 今年60才になる。初めて証をしたのは高校2年の時、夏の修養会でのことだった。まだ受洗前のことで、こわかったのを覚えている。教会へ行った初めては、幼い頃実家の近くのバプテスト教会へ近所のお姉さんが連れて行ってくれたのだった。しかし続かず、教会から離れていた。

 教会との繋がりは、高校生からだった。熊本バンド発祥の地、草葉町教会関連のミッションスクールに入ってからだった。このおかげで今の私があると言える。この学校は創立100年にもなる伝統ある学校で、創立者の手で「信仰 希望 愛」の文字が書かれていた。また、高校、大学、社会人と、この草葉町教会で育てられたことが、今まで私を動かしてきたと言える。

 受洗のきっかけは、寺澤牧師の「ひとりひとりを見て、ひとりひとりを大事にする」という考え方にふれたことからだった。当時、優秀な者と劣った者との差が激しく、「腐ったリンゴ、腐ったみかん」などと表現していた中で、「それはない」とはっきり言われた先生の話を聞き、聖書の話を聞き、1969年10月5日、矢崎牧師から受洗した。最近この牧師は退官、夫と共に当時のメンバーが集まり先生の話を聞いたが、当時と少しもぶれるところがなく、この先生とメンバーの中で育てられた幸いを思った。

 1971年1月に母を亡くし、9月には結婚した。熊本に住んで恵理香が生まれた後、夫の豊田自動車へ入社が叶い豊田の四郷に住むようになった。豊田教会に通ったが、四郷の近辺には雨宮てる、真柳康、坂上雅の3姉が住んでみえ、この三軒を回って教会へ行くのが常であった。車の中で、また日常生活でいろいろ教えていただき、またお世話になった。雨宮さんには子どもの教育、真柳さんには着物の縫い方、坂上さんには子育てであった。また、平井さんには3才になるみぎわを預かってもらったこともあった。

 恵理香が小3になった時、子ども会の役員をすることになった。それで、ラインサッカーの指導をすることになり、これがきっかけで豊田市の活動振興協会にはいり、夫と共にキャンプ、レクリエーションの指導をするようになった。教えるからには中途半端は許されないと研修をかさね、いろいろ訓練を受けた。

 1988年、森さんがYMCAを豊田に作りたいと言い出し、初代館長として平岩さんが来た。私も熊本でYMCAをやっていたので、これに関わり、青少年の指導者としての訓練を受けた。これまで26年間、逢妻の子ども達を指導しキャンプ、スキーに連れて行っているが、安全にやってこれた。ホレスタともジョイントして活動したり、六所山の青少年センターでも活動している。お寺のプログラム旅行社のプログラムで断られたこどもが、豊田教会のキャンプで受け入れられた例も経験し、指導するというよりは、子ども達と共にあって自分が育てられることを学んだ。

 これからも、乗り越える力、教える力を聖書から与えられるように、教会が我が家、38年間、豊田教会に集まって与えられたものを与えていけるようにと感謝しながら思う。(要約文責 久美江)


■安田 志峰

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