神様から押出されて、エジプトに戻ってきたモーセは、何度となくエジプト王ファラオと交渉をします。「民を礼拝のために3日の道のりゆかせて下さい」と頼むためです。相手は巨大な王国の王で、異教の神々を祭り、圧倒する権力があります。モーセに太刀打ちできる力は何もありません。しかし一つの武器があります。神様への信頼、信仰です。神様が力を与えてくださり、導いて下さる、モーセはそのことを知っています。事実、神様による様々なしるし(奇跡)を王に示し続けます。これはファラオには強烈で、たじろがされるほどの者です。しかし王の「かたくな」さは、民がエジプトから出ることを許しませんでした。
神様によってファラオにぶつかったモーセでしたが、民を解き放つための方策は閉ざされたままでした。『過越し』の出来事はここで起こります。これは、その後のイスラエルの人々の信仰生活の「記念すべき日」、「守るべき不変の定め」にもなってゆきます。自分たちの出所はこの過越しにあるとの振り返りが、神の民の共通の財産になります。丁度主イエスを信じる者が、すべては主イエスの十字架から始まると知るのと対応していると言えるでしょう。
『過越し』その日の夜、上記聖句にあるように、神様は「エジプトの国のすべての初子を撃つ」のです。王家の家庭も例外ではありません。ファラオは、「出て行って、あなた方の主に仕えなさい」とモーセに告げます。モーセはお王の変心があることはすでに十分すぎるほど知っています。実行に移すことができるとすれば、神様の見守りのみが頼りです。出発します。解き放ち(救い)の道に入るのです。出発です。
過越しは、喜ばしいことです。権力をもった人の支配から神様の支配へと場所を移すことになります。しかし楽しいことではありません。エジプト側からすれば、イスラエルの民は自分たちの支配下から逃げた者たちなのです。案の定、王は軍隊を遣わします。民は真剣に前を向いて進むのみです。後ろを向くことはできないのです。民の中にはそれを苦痛に感じる者たちもいます。それでもただただ前を向く旅が始まったのです。
神様が導いて下さる、それ以外にない、まさしく信仰の旅(神様により頼む人生)がここから新しく始まったのです。
( 牧師 金井俊宏 )
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