2010年7月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」ファラオは、「主とは一体何者なのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。 二人は言った。「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。
出エジプト記5章1〜3節(新共同訳)
 ミディアンの地で家族も与えられて年数を重ねていたモーセでした。前回(6月号)記しましたが、羊を追って奥地へと入った時、燃える柴の中から神様の呼びかけを聞きます。ここで召命を受けて、隷属状態にあるイスラエルの民を神様の導きに従って救い出す人物となります。新たにエジプトに戻ります。

 モーセは口下手でアロンが与えられ、神様によっての解き放ちを民に語りかけます。

 その上でエジプト王ファラオに向かいます。正面突破を目指して、懐柔工作等何もなしで直接ファラオに許可を求めます。「どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。」です。王からすれば、一介の小さな弱い群れのリーダーが堂々と王に要求を出すのです。モーセには大きな勇気が必要だったでしょう。しかし彼はただただ先立つ方、共なる方がおられる、その力を頼りにしてファラオに向かいます。

 この要求の言葉は、「私たちは何の囚われもなく心行くまで礼拝をする民でありたい」との申し出でもあります。こんなこと弱肉強食の世界では通用しません。強者なるファラオにとっては何一つ利点がないばかりか、マイナスの要求です。当然のごとく民への締め付けがますます厳しくなります。民は民で不平が出ます。人の知恵を混ぜた方が好ましそうです。でもモーセは率直に神様の導きのもとでの本筋の要求をしたのです。

 改めてですが、要求は礼拝のことです。場所がほしいのでもエジプトから逃げたいのでもありません。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛」(申命記6:5 他)する、その礼拝に向かいたいのです。神様が真実な礼拝を民に求め、可能にしてくださる、このことのためのモーセです。

 イスラエルは、神様によって生きる共同体を目指します。そのまま礼拝共同体を作ってゆく民であるといえます。自分たちの生活のすべてが神様からの恵みで支えられ、与えられてゆくことを願います。礼拝に始まり礼拝に戻る生活の目指します。今エジプトでモーセによってそのための苦しいけれど希望のある道が開かれようとしているのです。

( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■小栗 和子

聖地旅行報告シリーズ 4-2

 ドームは、イエス自身のために迫害される人のための九番目の至福を象徴しているといわれていた。
この日、ご夫妻で参加の山田兄は誕生日を迎えられた。ここ一隅にて、皆で賛美歌を歌い、祈り、祝福の恵みを受けられた。山田兄は、この旅行の直前になって参加を決断されたが、一番の祝福をいただかれたように思う。この素晴らしい恵みのときを共有できたことは、またまた感謝。
皆は買い物中のこと。私は体調がいまいちなので、トイレの旨を告げて用を足しに出かけた。帰ってくると、あらら???皆が忽然と消えていた。一瞬途方にくれる。どこかで買い物している姿があるのではないかと売店を探しまわる。広くも無い所なので、おかしいな?と、思いつつ売店を出てくると、迷える子羊を探しにバスが戻って来てくれた。感謝、感謝。アクシデントはつきもの。しかし、いつも結果的には守られていた。試練も喜び。神の豊かさに感謝。

パンと魚の奇跡の教会:の教会は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にさせた奇跡を記念して、ビザンテンィン時代に建てられた。祭壇の所にあるモザイク(2匹の魚とパン)の絵を買った。この絵は、いろんな場所で売られていたので、ここに来る前に、すでに買い求めてきた。






聖ペテロの召命教会(ペテロ首位権の教会):ペテロ首位権の教会は、ペテロが召命を受けた所。この地は緑が豊か。ユーカリの木は水をよく吸うのでこの地に適しておりまたこの地は泉が湧き出ている所があり、最高の良漁場だそうだ。
 ガリラヤに帰って漁をしていた弟子達に、イエス様は復活後、3度目に現れ、一緒に食事をされた。特にペテロは、他の人が皆裏切っても自分だけはと言っていたのに、「知らない」と3度も言って裏切った。そのイエス様がまた現れてくださったのだから、心穏やかではいられなかっただろう。そして、漁に出ても獲れないのに、イエス様がおっしゃられたようにすると、網を引き上げることができないほどの魚が獲れた。炭までおこして待っていてくださり、パンと魚の食事をいただく。裏切ったのに、赦され、迎えていただき、共に食事に預かることができたペテロや弟子たちへのイエス様の限りない大きな深い愛を思う。
 イエス様がペテロに、3度も「私を愛するか」と言われた。ペテロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたがよく知っておられます。」そして、イエス様はペテロに「わたしの子羊を飼いなさい」・・・「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21−1〜19)このところの聖書を読むと、自分の信仰を問いかけられているようで、身の引き締まる思いになる。ルーズな愚かしい己を省みて、こんな愚かしいものでも捉えてくださる主。主に繋がる素晴らしい友を備えてくださる主。本当に大きな喜びで、感謝に堪えない。

 数え切れない恵みをいただけたこの旅。この旅によって新たなおもいで信仰を見つめなおす機会となったことを主に感謝します。
 旅の間、礼拝を守り祝福を与えてくださった牧師先生たち、この旅行を備え支え、具体的に導いてくださった兄弟姉妹に心より感謝します。        小栗 和子


■深津 玲実

挿絵「むち打ち」
マタイ27:26

*私は母とよく映画を観にいった。母は老いてくると、映画の残虐な場面を見たがらなくなった。母の召された歳を越えた今、私も、この頃の母の気持ちがわかるようになってきたのを思う。

*「パッション」という映画。後になって私もVTRで観たが、あのイエスの受難の様をみて回心し信仰に入った人々がいると聞いた。それほどに「主の苦しみは我がためなり」と覚える人々がいる。それに対し私はどうか。

*志賀直哉の「城の崎にて」。鼠、蜂、イモリの死。生と死。死そのものは怖くないが、死の前に肉体の苦しみがあることはいやだ、かっこ悪い死に様はいやだ、等々死に思いをはせた。

*サルトルの「汚れた手」。自分はどれくらい苦痛に耐えられるか。キリスト教徒の迫害の歴史。聖書の「あなた方は未だ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことがありません。(ヘブライ12:4)」との御言葉に畏れを覚えた。(文:久美江)

「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」  詩編55:23


■安田 志峰

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