2010年3月号 |
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ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。 ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。
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創世記49章 1〜2節(新共同訳) |
人には寿命があり、それゆえに人から人へと受け継いでゆく大事な作業があります。創世記は、神様の祝福をアブラハムからイサクヘ、イサクからヤコブへ、ヤコブから12人の子供たちへと受け継いでゆくその話でもあります。のちには「アブラハム、イサク、ヤコブの神」との表現が定型化がなされ、受け継ぎの歴史の中に神の民が祝福を覚えて歩んでいる事実を語りかけています。
ヤコブの祝福の言葉です。若かりし頃のヤコブは、目先が効き、利発で、わが道を進むためには、兄エサウに殺されかねない憎しみを与えるような強引なところがありました。私たちの参考になる人物とは言えない面が多々あります。しかし神様の祝福を継ぐものとしてその生涯を全うするのです。
聖書はいわゆる善人が神様のためのよい働き人であるとは語りません。あくまでも神様中心を示します。神様はこうあるべきと人の判断でなす考えの中に必ずしも神様はおられないのです。ヤコブの振る舞いを見ていますとそのことを強く思います。
そのヤコブがいよいよ自分の終わりの時が近くなった時、12人の子供たちに祝福の言葉を語ります。創世記49章をお読みいただきたいです。読んでみますと、その祝福の言葉は必ずしもすべてほめ言葉ではありません。人間が陥りやすい多くのことが示されており、現実の生活は汚れや搾取が絡んでくることを見ています。12人の様子のすべてが、まるでひとつの人格の中にあるかのように語られていて、その者への祝福がなされていると感じます。
ですから、私たちは自分の力で清くなることはできないし、状況や時代の流れで自分がどこへ行ってしまうかわからないうつろさを常に抱えていますが、でもこの私も神様からの祝福によって支えられ守られて歩める幸いはあると知らされます。
ヤコブの12人の子供たちへのこの祝福は、やがてイスラエルの12部族として神様からの土地を受け継ぐものたちが登場しますがその者たちへの祝福につながり,さらには主イエスの12弟子への導きへと思いがゆきます。さらには、それは今日、私たちが神様の祝福をいただく者とされて、人間として生きるようにとの語りかけとして聞けるのではないでしょうか。
( 牧師 金井俊宏 )
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■岡田 信子
「聖地旅行報告シリーズ 3」
*半田教会の篠田さんよりイスラエルの聖地巡り計画をしたいとの話がありました。以前豊田教会でも有志で聖地巡りを行う為に積立を始めたが、実現できず残念に思っていたところでしたので、以前集めた資料と新たに調べたもので、安全と現地内容確認して、行程、料金を提示いたしました。
*決定後、良くある事ですが、航空機の飛行日程変更や、現地ガイドの変更連絡が出発1日前にあったり、締め切ってからの参加者の取消し等が出たりして、久しぶりにワクワクしながら、「何があっても主の生誕地への旅は、備えられている」と、祈り出発準備をしました。
*中部空港より韓国航空にて、ソウル経由、カイロ空港へと。機内では、食事が良く、韓国女性のアテンダントが美人でスタイルが良いので、初めて韓国航空に乗った人はビックリしたようで、「次もこの航空機が良いね」と、それにサービスも良くてと、話に花がさいていました。
*カイロ到着して、ビザ申請の手続を終えて、空港より5分のホテルへ夜遅くチェクイン。まだ皆さん元気に各自の部屋へ移動して自由時間になりホットひと息し、ホテル内の確認と散策後、みやげ物店で買い物しドル紙幣をくずしておいた。
*翌日は、シナイ山へ。現地ガイド(MRアシュラフさん)と合流し向う。途中モーゼの泉に立ち寄り、砂漠の横が海で塩水の井戸ではなかったかと思い聞いたら、その当時は真水の井戸が12個有ったが、現在は戦争で壊され5個に成っていた。
*シナイ山へは、ラクダで夜中の2時頃から登り、八合目から階段を歩き、山頂より太陽が上がるのを見て下山の予定でした。何もなかったら、なーんだで済む所でしたが、用意されていた出来事がありました。《杉浦さんラクダに乗って岩に接触、片方靴落とし事件》です。でも8合目に着いてからその事を聞いたので、杉浦さんには山頂登山はやめてガイドと2人で山小屋で待機をお願いしました。日の出を見て山小屋に帰ってきたら、不安な顔をして見送っていた杉浦さんがニコニコして待っていて、「靴が見つかった」と、大喜び。みんなも何処で落としたか分からない靴が見つかるとは思っていなくて、ガイドの方が探しに行き、見つけて届けてくださり、感謝の時を与えられました。
*イスラエルの入国では、パスポートを催促してもなかなか返してくれなくて、それでも文句を言える雰囲気では無かった。何とか入国でホットして、バスに乗車し死海へ向う。・・・・・明日からイスラエルの地を歩くと思ったらワクワクしてきて中々寝付かれず、朝を迎えた。
*早天礼拝後、朝食をとり出発、イエス・キリストの伝道の地を巡りながら、聖書に書いてある場所などキリストの足跡をたどりながらの移動が現実かとの思いで、見るもの聞くものが子供の時に何か新しいものを体験した時と同じ思いでした。
*毎日、一日の行程を、冷静に安全を確認し、みんなが、健康に旅が出来るよう願いながら過ごしていましたが、日が立つに従い胃腸障害の参加者がでてきました。それでも、みなさん大した事にもならず無事帰国する事ができ、主に感謝致しました。
*準備段階から余りイスラエルの情報が無く、時間や曜日で入場出来ない所が有り、ご迷惑をかけましたが、みなさんの協力で旅を終える事が出来、ありがとうございました。
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■深津 玲実 |
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「ビラトから尋問される」
ヨハネによる福音書18章 33−38節
イエスは裁判にかけられた。日本で裁判員制度が始まっている。ちなみに、ユダヤでは全員一致の票決は無効であると言う。これは、民主主義、多数決の考え方とは違う。
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■安田 志峰
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