2010年2月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」
創世記45章4〜8節(新共同訳)
 12人兄弟の下から2番目ヨセフは、兄たちから「夢見る人」と揶揄されたうえに、エジプトに売られてしまいました。 ところが、この「夢見る人」ヨセフが、エジプト王の夢を解くほどの働きをなして、国の豊作対策、飢饉対策の責任者となります。飢饉になった時、周辺の国々の人々は困り果てるのですが、エジプトは在庫が豊富で、困っている人々の助けすら出来るほどでした。

 さてヨセフの兄たちは、カナンの地で飢饉にあい食料がなくて困り果てます。食料を求めてエジプトに行きます。・まさかヨセフが最高ポストに就いているなどとは思ってもいません。厚遇を受けて帰ることになるのですが、人質を取られて末っ子を連れてくるように、父を連れてくるように要求されます。ヨセフは兄たちと知っていたからです。

 兄たちは困り果てて、家の事情を話し始めます。父ヤコブがことのほかかわいがっていた弟のヨセフがエジプトに売られてしまったこと、末っ子を自分の近くから離さないこと等などです。

 ヨセフは、様子が分かるほどに我慢できなくなり、自分が売られた弟であることを明かします。そして恨んでいないこと、責める思いなぞ無いこと、を伝えます。しかしヨセフはここで、それ以上に、生きる道が与えられるのは、神さまによってであることを述べます。「命を救うために、神がわたしを先にお遣わしになったのです。大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 ここには、人と人との関わりを超えて、神さまのご計画があることを信じているヨセフがいます。私たちを生かしてくださっているのは神さまであるという信仰がはっきりと語られています。人としての度量に広さや愛の大きさだけでは計ることができない、けれども神さまの導きを思って生きる、それがあるという示しがあります。 神さまが人間の歴史の中にみ手を述べてくださっています。その思いをもって生きること、それ以上に心を広げられるものはないと、心深くしたいです。

( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■久保地 順子

特別寄稿 1月28日 大畠牧師の葬儀に参列しました

 夜からの雨は止んでいましたが暗く悲しい朝でした。岡田夫妻のアルファードに山田夫妻、平井姉、私の6人で同乗し、どんよりとした空、墨絵のように霧が立ち込めた鈴鹿山系をひた走り、狭い古い通りに100年は経っていようという八尾教会に着きました。

 遺影は豊田教会の時より少し年取ったかな、でも歯を入れていてとてもいい写真でした。前奏曲は何と足踏み式の古いオルガンで静かにフォーレのレクイエムで始まり、司式・聖書・祈祷・説教は地域の牧師たちがそれぞれ分担して行なわれました。聖書はヨブ記19章23から27「この皮膚が損なわれようとも この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」

 説教は40代後半という感じで知性と人間味を兼ね備えた牧師で、大畠牧師の61年の歩みを語り、お酒と煙草をやめられなかった日々、残された93才の老父への「今、神の御心はわからない」と慰めのことばをかけ、どうしようもない弱さをかかえた人間の苦悩、神を仰ぎ見るしかない存在、強く心に響き、この原稿を書かせています。

 弔辞で白髪の女性は「先生はいつも動いていて、掃除機をかけたり、冷たいお茶を用意してくださり、命は神様から授かっていると口癖だった」と、豊田教会での先生の顔とはちがった面を知りました。もう一方、役員の男性は「大畠牧師は始めから健康面は与えられてなく、その力は50%だったかもしれないが、後の半分は恵美夫人と教会員でうめて行った。」やはり歴史があり、信徒の層が厚い、懐の深い教会だと感じました。

 最後の挨拶で恵美さんは、涙ながらに、でも気丈に、双方の親とも仏教徒の二人の結婚、出産、千葉から豊田、2年間の空白を経て八尾教会までを、感謝と苦悩と喜びをもって過ごした日々を語りました。豊田教会での説教の前はいつも嘔吐していた事、八尾教会の前半、美しい淀川の見えるところに住み、大阪へもどった喜びに満たされたと語りました。また先生は、最後、この前の大腸がん手術を前に子ども達、恵美さん、信徒の方々に、もしもの時のメッセージを残したそうです。青年に成長した四人のお子さんが恵美さんの横に並び、二番目の先生にそっくりの耕ちゃんは涙涙

 オルガンの後方で、信徒によるチェロとピアノが流れる中、大勢の人々が献花しました。それは、深い悲しみと美しさに満ち、神様からの慰めを感じました。前任牧師の中西先生、元岡崎教会の牧師夫人、元安城教会の牧師夫妻、東富士から四日姉、つくばから小泉姉も一緒でした。




■深津 玲実

挿絵「ユダの自殺」
マタイによる福音書27章 3−8節

キリスト教は自殺を禁じている。細川ガラシャ夫人を思い、マサダの要塞の出来事を思う。そんな視点でいたところ、「1日1章」に全く違う視点が示されていた。

《聖書の関心ごとは、神の召しにその人がどれだけこたえたかということである。・・・どんなすばらしい筆も置かれているだけでは意味がない。神に用いられてこそ存在価値がある。神はどんな筆でもさしだせば用いてすばらしいものを書いてくださる。・・・罪は金を返しても解決できない。ユダは祭司長らに「お前の問題だ」と言われた。人では赦すことが出来ない。その後にイエスの十字架がある。》










■安田 志峰

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