2009年11月号 |
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兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、言った。「命まで取るのはよそう。」 ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。
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創世記37章18〜23節(新共同訳) |
父の寵愛を受けるヨセフ、これを面白く思わない10人の兄たち。主イエスが語られる罪がそのまま顔を出しています。
社会の最小単位である家族は、心を通わせ愛を重んじる歩みをなすものでありたいです。世界の平和、繁栄といった問題も出発点は家族であるはずです。しかし家族の間に亀裂が生じることはよくあります。本心そのままで向き合える関係でもあり、たわいのないことでも自制心が薄くなり、「死ね」「殺したい」と露骨な言葉が飛び交ったりします。
ヤコブ家は、兄たちがヨセフに対して殺したいほどの憎しみが募っています。外野席から見ますと、彼らの憎しみの元凶は父ヤコブですので、親が子供たちを偏り見るのはよくないと判断できます。そして兄たちもいい年齢なのだから精神的にも自立しなくてはとも言えます。このように他人事ですと私たちは立派なことが言えます。でもその有様の真っ只中で毎日を過ごす身になって考えてみますと、取り去ることのできない閉そく感が常につきまとうことでしょう。別の言い表しで申しますと、無用と知っていてもなかなか離れてくれない罪の性質、憎しみはそこで働きているということです。
羊を世話する兄たちのところへ、ヨセフが来ます。兄たちに殺す思いが広がります。しかし長男ルベンが「命まで取るのはよそう。」と言い始めます。でもこれは憎しみの風船がしぼんだのではありません。わが手は汚さずに憎しみの思いを成就する方策に進むだけです。「兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込」むのです。主イエスの「殺してはならない」(マタイ5:21〜)と語っておられるところに改めて思いがゆきます。
ヨセフのほうは、エジプトに売られることになります。そこで「夢見るお方」そのままで、主をたたえる働きが与えられてゆきます。それは彼が義人、善人だからというのではありません。兄たちが人(ここではヨセフ)への思いに執着しているとするなら、ヨセフは神様への思いが閉ざされはしなかったということだと思います。次回に続きます。
( 牧師 金井俊宏 )
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■深津 玲実 |
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「ユダ゛の接吻」
マタイによる福音書26章 47−52節
●ユダがイエス様に接吻する場面。その接吻が裏切りの合図に用いられた。
●オーバーアマガウで「受難劇」を観た時、新約聖書の出来事が旧約聖書に予表されていることを知った。この「ユダの接吻」のことは、旧約聖書サムエル記下20:7-10に「ヨアブの接吻」として「ヨアブは友情の接吻のふりをして、兄弟アマサを刺す」と記されている。それぞれの幕が始まる前に、この旧約聖書の場面が人物の静止画として描かれ、その前で、独唱と合唱で、新約聖書との関連、内容が歌われることになっている。
●その受難劇のシナリオには、このイラストの「ユダの接吻」の場面がこう書かれている。
第6幕 オリーブ山でのイエスの苦悶と捕縛
受難 第1場
オリーブ山にユダに率いられる宮守たち
ユダ:注意しなさいよ。攻撃は気づかれてはならない、そうすれば防衛は出来ないから。
宮守:もし彼らが防衛するなら、わたしたちの武器の効果を知ることになるさ。
ユダ:心配するな。彼は剣の一突きもいらずに、あなたがたの手に入りますよ。
ヨセフ:わたしたちはおまえの主人を、この暗闇でどうして見分けようか。
ユダ:わたしが合図をします。お聞きください。わたしの接吻する者が彼だ。
コサム:よろしい、その合図で確かだろう。
プトロレミウス:聞いたか、わたしたちは接吻によって彼を知るのだ。
ユダ:さあ急ごう、もう時間だ、わたしたちは彼らからそう遠くはない。
ヨセフ:ユダ、もしわたしたちがこのことに成功したら、おまえは大きな誉れを受けるだろう。
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■安田 志峰
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