2009年8月号 |
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「もう去らせてくれ。」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
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創世記 32章23節〜(抜粋:新共同訳) |
ヤコブなる人物は、頭がよく、実行力もあり、能力のある人物です。ただし兄エサウからすると、長兄の特権をだまし取ってしまったのですから、狡猾であり、自己中心と映ったでしょう。兄弟が仲良くできないのは悲しいことですが、ヤコブは、母の計らいもあって、神様の祝福を受け継ぐ権利を兄から譲り受けてしまいました。それゆえ兄を避けるため、また妻を得るためヤコブはひと時(と言っても20年)この地を離れて、母の故郷ハランの叔父の所へと旅立ちます。
その途中夜中に、ヤコブは神様と組打ち(格闘)になります。上の聖句です。彼は、相手がもう去らせてくれと頼んでも放しません。父イサクから受継ぎをした祝福を、ここで直接粘り強く求めます。
ヤコブにとってこの格闘は、神様と自分とが全く一対一そのものになる初めての体験です。母の愛を溢れるほどに受けて生きてきた彼にとって、その意味では信仰の自立を試される時であったとも言えます。しかしこの格闘はヤコブにとってそれ以上の試練でした。この目で神様を見ると言いうことは恐れ多すぎて「死」を意味していたからです。ヤコブにとってはこの格闘は生きるか死ぬか、なのです。ついに「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言います。祝福を得たのです。神様と対しての命に預かったのです。
ヤコブの祖父アブラハムは、行き先を知らずに神様のみ心のみに信頼して旅を始めた人物でした。比べますと、ヤコブの場合は、安心できる行き先(叔父の家)があり、妻を得てまた帰ることも思っており、一人旅とはいえ、まだ恵まれています。それでも、これからは頼りにする者はいません。神様に自分がみ心を祈り求めて進んでゆく人生が始まったのです。
このペヌエル(神の顔)の地、ヤコブは神様に対して体を張った経験をしました。人生にみ心を注ぎかけて守って下さる方を、頭でではなく存在そのもので知ったのです。試練がたくさん待っていますが、神様の祝福の道を進む、その人生の新しいスタートです。
( 牧師 金井俊宏 )
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■深津 玲実 |
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「ユダの裏切り」 マタイ26:4-16
*イエス様が選ばれた12人の弟子の一人ユダは、裏切り者として嫌われ、聖書の時代から今にいたるまでユダヤ人に対する偏見は尾を引いている。
*このイラストで、金袋を持っているのがユダで、祭司長からイエス様を売った代金、銀30枚(奴隷ひとりを売買する値段)を受け取っているところである。
*このユダについて、わたしはいくつかのことを思い出す。ひとつは、「リーメンシュナイダー」の彫刻による祭壇の中央部「最後の晩餐」の場面にいるユダ。二つ目は、ロックオペラ「ジーザスクライスト・スーパースター」に出てくるユダ。三つ目は、保郎牧師による「一日一章」でとりあげられたユダである。
*ドイツ「聖ヤコブ教会」にあるリーメンシュナイダーの彫刻では、ユダが中央にいて(ほとんどの最後の晩餐の絵ではキリストが中央にいる)、キリストから鉢に浸したパン切れを受けている。これは親しい交わりの印だった。けれどユダは「パン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(ヨハネ13:30)と書かれている。実は、この祭壇のユダは簡単に取り外せるようになっていて、聖餐式のときユダを取り外すと、キリストが母マリアを託したあの愛弟子ヨハネがよく見えるようにつくられている。
*ロックオペラ「ジーザスクライスト・スーパースター」は、ロンドンでロングランだった。ここでもユダに結構スポットがあてられている。ユダの自殺というタイトルのところだけでなく、イエスの裁判の場面にも、陰の声としてユダの思いがうたわれる。たとえば、ビラトの裁判の場面で群集が「十字架につけろ」とさけんだ時、ユダの声がはいる「心を配って行動していたら、こうはならなかっただろうにー 何故あなたは、あ
んな時代のあんな土地を選んだのですか? もし今日だったら、もっと影響力を与えたでしょうにー 紀元前4年のイスラエルでは、マスコミもありませんしね。どうか悪く思わないでください。私は知りたいだけです。」と。またこうも言っている。「主よ、あなたには聞こえないだろうか、わたしはあなたの望みのままに行動したまでだ。」とか、「イエスは私をも愛してくれるだろうか?」「あなたは全てを知っている。神よ、何故、この罪を犯す人間として私は選ばれたのか?」とも。
*ユダはイエス様が捕らえられれば、国のために力をふるって立ち上がってくれるだろうと期待していた。しかし、イエス様はそうしなかった。ユダはイエス様を売った代金を返しにゆくが断られ、自殺してしまう。イエス様の受難の出来事の中で、同じようにイエス様を裏切ったペテロを思う。ユダは自殺してしまうが、ペトロは裏切ったイエス様のために殉教する。この違いはどこからくるのだろうか?同じようにイエス様を裏切ったけれど、ペトロはイエス様のもとに帰り悔い改めをした。しかしユダはイエス様のもとに帰らず自分でその責任を負い自殺をする。人間の限界、人間の弱さは、自分の思いが先に立って「みこころのままに」と言えないところにあるのだった。
(文:久美江
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■安田 志峰
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