2009年6月号 |
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ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
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創世記25章29節〜(新共同訳) |
アブラハムの子イサクは、リベカという利発な女性と結婚し、エサウとヤコブという双子が与えられました。エサウが兄で狩人に、弟ヤコブは家の周囲での仕事につきました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛したと聖書は記しています。親は子供たちに平等に愛を注いでいるつもりでも、偏りが生じる場合がありますが、このようにはっきりと片方を愛するとあると、自分勝手な愛に生きる私たちの姿を見る思いもします。
上の聖句は、食べ物についての兄弟のたわいないやり取りです。しかし些細なことが実は大きなことの始まりでもあります。兄エサウはお腹がすいた、疲れた、ちょうど弟ヤコブの食べ物がある、それがほしいと頼みます。しかし計算高いヤコブでした。条件を出します。見過ごしにできない大きな要求を出すのです。「長子の権利をくれ」です。一昔前までは日本でも、長男の地位は特別とされていました。弟ヤコブの要求は二人の間だけで決めることなぞ出来ない大きな要求であることはお分かりになるでしょう。「だから」約束しても大したことはないと思ったか、「しかし」とにかく腹を満たしたいと思ったか、エサウは「長男の権利なぞ今はどうでもよい」と言ってしまうのです。
実は長子の権利については、母リベカがヤコブの後押しをしています。彼女はヤコブを、アブラハム→イサク→エサウでなく、アブラハム→イサク→ヤコブとしたいのです。ほどなくこのリベカーヤコブ連合軍は父であり夫であるイサクに対しても策を弄して、ヤコブの長子の権利を正当化してしまいます。
この話は多分人間的なエサウに同情する人が多いでしょうが、大事なことに無頓着なエサウ(後でヤコブに腹を立てます)です。ただしもしこの無頓着が神様に対しての無頓着であるなら、長子というだけで、イサクの後を継ぐことはできないです。ここが決め手なのではないでしょうか。ヤコブが自覚を持って受け継ぎをするのです。
( 牧師 金井俊宏 )
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■深津 玲実 |
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「神殿の潔め」 マルコによる福音書11:15-19
*聖書の中で、唯一イエス様が暴力を振るわれた場面
*イエス様は、「祈りの家を強盗の巣にした」と言って、神殿で売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。(イラストはこの場面)
*こんな怒りをあらわにされたイエス様を、聖書はちゃんと描いている。聖書はイエス様を、人間の側から見た理想の人物には描いていない。
*この場面を読んで、教会でバザーをするのは良くないのでは?と思われた時がある。神殿で売り買いをする、教会でバザーをする。同じではないか?
*イエス様が怒られたのは、神殿で売買をすること自体ではなく、売買の内容だった。当時、神殿に詣で、犠牲をささげるのに鳩を用いるのは一番貧しい人たちであった。その鳩を神殿で求める人のために売ることは、ある意味、必要なことだったとも言える。
*ある意味というのは、売る側にとっては便宜をはかってやるということになるからである。しかし、実際、神殿の外で買ってきた犠牲の鳥獣は検査官に不合格とされるので、いくら高くても神殿内で買わざるをえなかった。鳩しかささげられない貧しい人が、高い値段で買わされることを余儀なくされるのだった。
*三浦綾子氏は、「その搾取をイエスは怒ったのである。キリストの愛は、過保護な今の親たちの愛とはちがう。怒るべき時には、聖なる怒りをもって私たちを導く。もし、今の世にキリストが来給うならば、政界に財界に聖なる怒りを発して、さらに大いなる笞をふるい給うにちがいない。」と、グレコの描いた「神殿を清める」絵のコメントに書いている。
*榎本保郎牧師は、「参詣人のために商売をすること、境内を通って物を運ぶことは、いずれも人間の都合による生き方を示している。日曜日の礼拝でも、いかにも自分の都合は動かせないように言って出席しない人がある。ともするとこのように、人間の事情が神に対する私たちの行動をも決定してしまうようになる。イエスが教えられたのはその点である。」と「一日一章」に書いている。 (文:榎本 久美江)
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■安田 志峰
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