2009年4月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
主人(アブラハム)は、『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよう。… こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。
創世記24章40.42節(新共同訳)
 アブラハムは、いよいよ年が進み、自分の寿命を思います。神様の祝福を継ぐのは息子イサクですので、イサクの結婚のことを考えます。結婚するイサクも妻を与えられて、家族をもち、その中から神様の祝福を継ぐ者を得てゆく務めがあります。少し古めかしく感じるかもしれませんが、この結婚は、好きになった、一緒にやってゆけそう、といった理由よりも、受け継ぎを考えてなされます。自分の時間と空間のみだけを思って結婚するのではなく、結婚には受け継ぎの要素もあると思っているのです。その人の生きる姿勢と関わっています。

 結婚生活のスタートはだれの場合でも不確かさが多いです。実際思いがけない方向に進むこともたくさんあります。それでも何を思って結婚するかで、その結婚生活が決まってくるところはあるはずです。アブラハムは、息子イサクの嫁となる者を神様の導きを共に覚える者の中からと望みました。それが「わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来る」ことだったのです。

 主人(アブラハム)は、息子の結婚相手を故郷から迎えたいために、使いの者を出します。そこでの相応しい女性を見つけるくだりは物語風に記されていますが、アブラハムからすると姪にあたるリベカという女性をイサクの妻として迎えることになります。リベカ自身、結婚の意思を示し、またリベカの兄であるラバンが祝福の祈りをしてイサクのところへと向かいます。

 聖書は、この話の区切りで、「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」と記します。結婚は一面個人的なことであることを知りえます。しかしそこに最小単位の生きて動く社会の誕生でもあります。神様のみ手が働いて下さるようにと願い祈りつつ、人間の賢さ愚かさ、強さ弱さを抱えて、知恵や力も働かせて、神様をあがめる道が守られ、進められるようとイサク夫婦が出発するのです。

( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■深津 玲実
挿絵「ラザロの死と復活」
           ヨハネによる福音書11:38-44

*あの姉妹「マルタとマリヤ」の兄弟ラザロが、死んでイエスによって復活した出来事である。

*このラザロの出来事について、聖書は11-12章と、二つの章を費やして描いている。それだけ大事な出来事なのだ。

*この時イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」

*私が教会へいくようになって、高校生になった頃を思い出す。当時私のかよっていた半田教会は、まだお座敷の教会で、専任の牧師もいなくて、名古屋の熱田教会から来ていただき、午後から礼拝を守っていた。ある時、加藤久雄牧師がみえて、礼拝後の話の中、「私たちの生きる目的は何ですか?」と質問したことがある。

*牧師は即座には答えず、次の週の礼拝後に答えてくださった。「私たちの生きる目的は、神の栄光を現すためです」と。

*即座に答えるのでなく、改めて答える時をもってくださったことは、私の質問を真摯に受け止めてくださったことと思え、この時の答えが抵抗なく受け入れられたのを覚えている。

*ラザロが病気になったのは、死ぬためではなく、神の栄光のためであり、死んだのも髪の栄光のためであった。ラザロが病気と聞いても、すぐに飛んで行かなかったのも、人々がイエスを信じて神に栄光を帰すためであった。

*欠けだらけの人間が「神の栄光」を現すなんて出来っこないと思う。でも、この出来事の中で、神の栄光を現すために用いられたラザロは、一言もいわず、何もしていない。ただ、まわりの人々が、「もっと早く来てくれればよかったのに」と不満を言ったり、「もう死後の腐敗が始まっている」と常識的な言葉をはいたりしているのだ。

*私たちは、神の栄光を現すために作られた神の作品である。でも、自分の力で神の栄光を現そうなどと、だいそれたことを思わなくていい。ただ、主が用いてくださるのを待てばいい。そんな風に思えてくる。(文:榎本 久美江)



■安田 志峰

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