2009年3月号 |
←前へ 次へ→ |
 |
|
神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
|
|
創世記22章1〜2節(新共同訳) |
年老いたアブラハムに、妻サラによって念願のわが子イサクが与えられました。アブラハムにとっては、我が家に子供が与えられたというに勝って、神の前に喜びが広がったことでしょう。(この子は神の祝福を覚えて、それを継いでゆくべき存在だからです) 人の命に軽重はないものの、大切に大切に育てたい命が与えられたのです。
ところが、神はアブラハムを試されます。それもやけどをする程度の試しではありません。アブラハムが生きているその土台は何か、その足元を確認するための試しです。その子イサクをモリヤの地でささげなさいという命令が出されます。
アブラハムは試しであることを知るすべはありません。命じられた通りイサクを連れて山に向かいます。それは冷静そのものに見えます。人は本当に悲しい時、涙も出ないことがあると言われますが、親として一人の人間として、どうしようもないほどの葛藤があったことでしょう。定められた山に着いたアブラハムはわが子イサクを縛り、ささげものとします。あとは葬るのみです。その時「アブラハム、アブラハム、その子に手を下すな」と声がかかります。
一体神であってもこのような試みは許されるのでしょうか。私たち人間同士では間違いなくそのような試しはあってはなりません。神は随分むごいことをされる方と見えます。しかし神は私たちの命の主です。神が試しで求めておられるのは、人間同士の信頼に勝る神との信頼関係があることについてです。神が命の主であるが故の、この試み、と言えるでしょう。
この時のことで、私たちがしっかりと目に留めたいのは、アブラハムです。「主は備えて下さった」と言っています。主に備えがある。それゆえ、わたしとイサクは今ここにいる、と言い表しているのです。
私たちの生きる道は、それぞれに山坂があります。どこを通ろうとも、神への信頼は力であり、平安が用意されています。それを知る心が私たちに確かな歩みをもたらすのだと思います。( 牧師 金井俊宏 )
|

|
 |
|
■深津 玲実 |
|
「イエスに近づく様々な人々」 マタイ19:1-6、13:24
*今回は、聖書に書かれている譬え話や出来事というのでなく、「イエスに近づく様々な人々」という題でイラストが描かれている。
*表記の聖書箇所に出てくる様々な人々は、病気を癒していただこうと従う群衆であったり、イエスを試そうとするファリサイ派の人々であったり、イエスに手を置いて祈っていただくために子供たちを連れてきた人々であったり、と様々である。
*玲実さんのイラストに描かれているのは多分、イエスのもとに連れてこられた子供たちで、弟子たちが子供を連れてきた親を叱ったのに、イエスが「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」と言われたところだと思う。
*日本にキリスト教が伝えられたとき、、宣教師、日本のキリスト者たちは、あちこちにミッションスクールをたて、教育に力を注いだ。
*昨年混声合唱団が豊田教会でも奉仕してくれた同志社大学をはじめ、関西学院大学、青山学院大学、明治学院大学、早稲田大学、等々、キリスト教がその建学の精神である学校は多い。
*教会も「教会学校」(かつては、日曜学校と言われていたが、生涯教育の考え方からこう呼ばれるようになった)を通してこの働きに参与している。
*豊田教会も、「子供たちを来させなさい」というイエスの招きに応えるよう促されている(文:榎本 久美江)
|
|
■安田 志峰
|
|
|
|
トップページへ
|

|