2009年2月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
創世記18章20〜21節(新共同訳)
 ソドムとゴモラの話は、教会に来たことがない人でも知っている人がたくさんいます。滅びの町の話です。創世記13:13には「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」とあります。

 この邪悪な町にアブラハムの甥であるロトが住むことになります。両者はこれまで共に生活してきたのですが、財産(家畜―それゆえに雇い人)が両者とも多くなり、トラブルもおこり、別れて暮らすほうが今よりはよいだろうとアブラハムがロトに提案したのです。ロトは見た目に自分が好ましいと思える土地を選びました。それがソドムです。

 好ましい土地―水があり、潤いがある地のことです。水によって文明が開かれていったとも言えますから、自然環境が整っている土地は人にも家畜にも最適です。しかし潤いがあるところほど、えてして住む人の欲得が渦巻くところにもなります。ソドムはその典型であったようです。上にある聖句は、主がソドムについて見定めをする、とアブラハムに告げられた言葉です。 アブラハムはこれを聞くと、この町に50人でも、30人、10人でも、正しい人がいたら滅ぼさないで下さい、と祈り願っています。

 他方ロトはロトで、不法状態のこの町が滅びるということを、客となった旅人から聞かされます。家族を連れて町を離れることにします。これは「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」(創19:17)とあり、邪悪からの決別です。人生では、いくつも分かれ道がやってきますが、「後ろを振り返らない選択」を求められたその意味は、この選択が唯一であるということでしょう。だめだったら戻って考えればよいということはない、ソドムからの旅立ちはそういう旅立ちです。聖書の先を読みますと、ロトの妻はソドムを振り返ったために「塩の柱」になったとあります。ソドムには硫黄の火が降り注ぎ、町が消滅します。

 前(神)に向かい、後ろへの思いを捨てて進むべき時を思いたいです。望みの時としてです。( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■深津 玲実
挿絵「マルタとマリア」
           ルカによる福音書10:38-42

*マルタとマリア、二人の姉妹がいた。この絵で、マルタは入り口に後ろ向きで立っている。マリアはイエスの側に座って、でもマルタを気にしている。

*マルタはイエスをもてなすのに心くだき、忙しく働いていた。だのに、マリアは何もせずイエスの側に座って、イエスの話に耳を傾けていた。

*マルタはたまりかねて、イエスに言う。「妹にも働くよう言ってください」と。

*このとき、イエスが言われた言葉は、「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」であった。

*わたしが教会学校へ行き始めた頃、家は食料品店を営んでいた。当時は勿論日曜休みではなかったし、家族は店を手伝うのが当然の時代だった。私が教会へ行くことは家業の手伝いをしないことになり、妹に家の手伝いをさせることになった。

*教会へ行くのと家の手伝いをするのと、私は良いほうを選んだ? そう単純な話ではない。後になって、「それほど、イエス様は私たちに話しを聴いてほしいんです。」「マルタがイエス様にマリアのことを言わなければ、マリアが良いほうを選んだとは言われなかったでしょう。」と、いろいろな解釈を聞いた。

*今、私の心にとまるのは、イエス様の「取り上げてはならない」と言う言葉の重みである。それぞれが示されたことをやる。やっていること自体はどちらが良いとか悪いとかではない。自分と同じようにやらないことに心を乱し、自分と違う人からそれを取り上げてはならない。ということである。

*以前、牧師が政治活動に熱心な青年に、「君がやることは大いによろしい。しかし、他の人にも同じようにやらせないと気がすまないのはよくない。」と言っていたのを思い出す。熱心に聴いているマリヤから、それを取り上げることがないようにしなくてはと思う。(文:榎本 久美江)



■安田 志峰

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