2009年1月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
サラはひそかに笑った。… 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれている。」
創世記18章10〜14節(新共同訳)
 アブラハムにはサラという妻がいました。サラには、願っていた赤ちゃんが与えられませんでした。女性にとって、今の時代よりももっと無念なことだったようです。サラはアブラハムの後を継ぐものを得るため、ハガルという女奴隷に子供を産んでもらうことにします。すると身ごもったハガルは主人サラを軽んじ始めたり、サラはサラで奴隷ハガルに辛くあたったり、人間世界そのものの葛藤が見えます。サラの心は、不妊の悔しさと、でもそれをあきらめたやるせなさが広がったことでしょう。

 月日が進んだある日、主の御心を語る来客があり、アブラハムに、サラの子供が与えられる、と知らせます。天幕の外でこの知らせを聞いたサラは「ひそかに笑った」とあります。それはそうです。諦めきれないのに、可能性が100%ないと諦めた事柄です。今さらほじくり返されても何の意味のないことです。もうその話は、過去のどこかに箱に詰めて仕舞ったことです。たとえ主の御心であっても、不可能としか考えられません。

 しかしこの来客は「なぜ笑ったのか」とサラに言います。根拠のある話をしたからです。その根拠とは何でしょうか。「主に不可能なことがあろうか」です。神は全能者だからです。これは人を丸めこむ言葉ではありません。私たちが聖書で知ることそれは、サラにとって個人的なことでありつつ、主のご計画があるということです。アブラハムからイサクへそしてヤコブへと神様の御心にふれる者の引き継ぎがなされてゆくことだからです。サラの思いに勝って主が働いておられるその力を見ます。やがて主イエスが来られるその時へ向けての主の働きです。サラに子供が与えられることは、「主の可能性」を思えばほんのわずかな現れでしかありません。

 私たちの人生は年を重ねるほどに諦めの数も増えます。しかし、命のある道がその私たちの前に備えられている語りかけを心で聞くとき、サラにような驚きのことでなくても「主に不可能なことがあろうか」が、この私にも語りかけられているはずです。( 牧師 金井俊宏 )



教会員の投稿
■深津 玲実
挿絵「十人の乙女のたとえ」

 〜イエスが語られた天国のたとえの一つ〜

 十人の乙女がそれぞれともし火を持って花婿を出迎えようとしていた。
 五人は愚かで五人は賢かった。愚かな乙女はともし火だけで、油を持っていなかった。賢い乙女はともし火と共に油を用意していた。
 花婿の到着が遅れ、眠り込んでしまった時、「花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がした。
 愚かな乙女は、賢い乙女に油を分けてください。と言ったが、「分けてあげるほどはありません。」と断られた。
 賢い五人は花婿と婚宴の席にはいり、戸が閉じられた。
 愚かな乙女は油を買って来て戸を開けてください。といったが、「お前たちは知らない」と断られた。
 だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。マタイ15:1-13


*中学生の頃、この話を聞いた時、「目を覚ましていなさい」との言葉はわかるにしても、油を分けてあげない賢い乙女が気になった。
*少ししか無いものであっても、分け合うのが本当ではないか、賢いと言っても自分の事しか考えていないのではないか、愚かな人に対して、「用意してこないのが悪いんだ、自業自得だ」と自己責任を問うているように思えたのだ。
*後になって、ここで言っている油とは、持ち物、食べ物のように分け合えることができるものではなく、信仰であると知らされた。(久美江)



■安田 志峰

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