2008年9月号 |
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主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。 |
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創世記4:10-11(新共同訳) |
アダムとエバに2人の子供カインとアベルが与えられました。喜びは格別でしょう。やがてカインは農夫になり、アベルは牧畜者になります。二人とも働いた収穫物を神様に感謝して献げます。カインは土の実り、アベルは羊の初子をささげます。
ここで神様は、私たちから見れば差別をします。アベルの献げた物にのみ目をとめられるのです。たまらないのはカインです。怒ります。でも神様は「どうして怒るのか」です。むしろ「お前が正しいなら顔をあげられるはず」とカインの血圧がさらに上がる言葉を出されます。嫌な上司のようにも見えてきて、カインに同情したくなります。
それでも改めて「お前が正しいなら…」という言葉を見つめる必要があります。なぜなら神様(主)の態度を、いやみで好ましくないと私が決めつけるのは簡単ですが、それは相手が神様ですから、正確な判断とはいえないのです。
激しく怒ったカインですが、神様に直接怒りを向けるのでなく、弟アベルにぶつけます。殺してしまうのです。主が「罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める」と言われたその罪の中へと突き進んでしまったのです。上の太字の聖書の言葉はその時に主がカインに向けられた言葉です。―呪われたカインはさすらいの地(ノド)の住人になります。
この話は、神様の「不公平」が頭からなかなか離れません。でもカインにこだわりたいです。人は主を畏れずに自分そのものだけになったとき、何をしでかすかわからない弱さ(強さ)を持ってしまっている姿があります。時と場合だけで、いとも簡単に悪に蝕まれるのです。
主ご自身は、ノドの地の住人になってしまった者を見捨てられません。人の思いや考えに干渉することなく、しかし導きを絶やされないのです。やがての時、主イエスを遣わされるのです。
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■深津 玲実 |
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「おが屑と丸太の譬え」 |
ルカによる福音書6:39〜42(新共同訳)
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イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。・・・略・・・あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。
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■安田 志峰
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