2008年8月号 |
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主なる神は、彼(アダム)をエデンの園から追い出し、
彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 |
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創世記3:23(新共同訳) |
園の中央の木の実を神様との約束を破って食べてしまったアダムとエバは、神の庭から追放されました。
・誘惑に負けるという「弱さ」
・約束を破るという「不誠実さ」
・見つかりそうになると隠れるという「ごまかし」
・木の実をたべたため、自分で善悪を判断してしまう「傲慢さ」
ここで人間はそうしたものを取り去ることができない存在になりました。絶望をかかえる存在になったといってよいでしょう。望みのない者になってしまったのです。それでも神様に心を向けることまでは取り去られなかったのが、せめてもの幸いといえましょう。
ところが現代人は、「神様なぞ信じない」というに至っています。どこまでも自分中心(人間中心)になりきろうとしています。それは神様から離れることです。たとえたくさんの友達が与えられてもそれは孤独です。神様に対する全き信頼を置くようなことができない嘆きがどこか消えないからです。アダムとエバの間でも約束を破った後は、「恥ずかしさ」がお互いの間に生じてしまいました。私たちはお金に信頼したり、虚無を友とするしかないと思ったり、自らを慰める努力はしても、迷い道を歩くばかりです。それがエデンの園からの追放での出来事なのです。
主イエスは、その私たちの世の中に「救い」を現わしてくださいました。それが十字架です。人間は虚無に服して絶望と付き合ってゆかざるを得なくなっていますが、主イエスの十字架はそのことを承知です。私たち人間はそれほど見捨てた存在ではないはずですが、それでも神様から離れて生きる絶望を抱えています。主イエスの十字架を心にして、神様と人を愛する、希望のみの道があることを知ってゆきたいです。
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■深津 玲実 |
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「罪赦された女」 |
ヨハネによる福音書8:1〜11(新共同訳)
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*場面中央にいるのが「罪赦された女」。聖書には、「姦淫の女」とある。左側手をあげているのがイエスを試みようと現行犯の女をイエスの前に引き出した人。右側にいるのがイエス。
*当時の律法では、姦淫の女は「石打の刑」に処されることになっていた。もし、イエスがこの女を「赦せ」と言えば、イエスは律法を破ることになる。もし律法通りの刑に処せと言えば、イエスの説く教えに反する。イエスと試みようとの巧妙な罠である。
*この時、イエスの言われた言葉は印象的である。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい。」
*石打の刑というのは、一人一人が石を罪人に投げるので、刑の執行は個人の責任ですることになる。聖書には、このイエスの言葉を聞いた人々は、「年寄りからはじめ、みな立ち去ってしまった。」としるされている。そしてイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われた。
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■安田 志峰
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