2008年7月号 |
←前へ 次へ→ |
 |
|
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、 神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」 |
|
創世記3:4-5(新共同訳) |
御存じのエバが聞いた蛇の誘惑の言葉です。アダムも誘われました。
現代の人間に当てはめて考えてみますと、おいしそうな木の実は食欲をそそるし、食べれば目が開けて世界が広がるし、ましてや善悪を知ることができるとなれば他人を裁くこともできます。こんな魅惑的なものはありません。よりしっかりした知恵がつくのですから、自分の人生を納得して歩むためになりそうです。蛇はこんな良い話を持ってくるのです。彼は誘惑者ではなくて友達です。神さまとの約束「これを食べるな」なぞ、小さなことです。
聖書がこの話で私たちに語ろうとしていることを、二点考えてみたいと思います。
ひとつは、神様の約束は、人への褒美、あるいは罰則を使って守らせるのではないということです。人はこの約束を守っても損得はないのです。約束を守らせる理由や条件もありません。正しい関係が保たれる、そのためだけの約束です。ですから誰もが約束を思うことも裏切ることもできます。真の信頼が力である約束がここにあるのではないでしょうか。
もう一つは、人はこの誘惑を受けて、自分を神様なしで正しいと主張する者となり始めたということです。全き真理を知らないはずの人間同士が、正しさを主張しあう世界を持つのです。当然言い訳や裏切りが広がり、憎しみや差別や蔑視が混じってきます。その一番の典型は戦争だと思いますが、人間は戦争をするのは良くないと云いつつ、戦争をせざるを得ないその愚かさを抱えてしまったのです。蛇に誘われた人間の現実です。
残念ながら私たちは蛇から誘惑を受けた人間です。人と人との間での力関係を計って、やっとのことで平和を語るそんな社会にしか生きられなくなっています。
賢さを求めるゆえに愚かさを抱えてゆくその私たちに、主イエスの十字架は、神の恵みと憐れみを語ります。真の信頼を回復するためです。命をいただく歩みへの再出発です。
|

|
 |
|
■深津 節子 |
|
 |
|
「神殿税を納める」 |
マタイによる福音書17:24〜27(新共同訳)
|
24一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たぢがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。 25ペトロは「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」 26ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。 27しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。
*イエスは神の子であるから神殿税を納める義務はないが、隣人をつまずかせないために、納入して(この世的な義務を果たして)神の子の自由を示された。
*「釣りをしなさい」と言われたイエスは、弟子たちにも主にならう者となることを望まれ、みこころを行う者に必要なものが与えられることを示された。<<新約聖書略解>>
|
■安田 志峰
|
|
|
トップページへ
|

|