2008年5月号 ←前へ   次へ→
今月の御言葉
「光あれ」
創世記1章3節
 人は見ず知らずの真っ暗な空間に一人で過ごすことができる時間はそれほど長くはないそうです。じっとしていれば長く過ごせそうにも思うのですが、実際はだんだん平常心でいられなくなるとのことです。私たちはあまり明る過ぎるのは苦手で、暗いところも好んでいます。けれども闇が深くなるほどに現れ出てくるのは混沌です。

 「光あれ」。聖書の天地創造の記事で、神様はまず最初にこの世に光をもたらされました。地は闇が広がっていた、混沌だった、そこに神様がみ心を現わされる、それは神さまからの光が照らされることなのです。

 私たちは神様のことについてあれやこれやと、評論もしてしまうほどえらくなってしまっているのですが、聖書は、何はともあれ神様が「光あれ」とされてこの世は始まっていると告げます。ちなみに人間は神様の創造の業の中で一番最後に作られた存在です。人間は電気を発明し、原子力エネルギーを利用できるようになり、素晴しい文明を作り出しています。この世で一番尊大にふるまうことができる生き物です。しかし人間が作り出す文明が取り返しのつかない滅びへの道を進んでいるような気がしてもきます。もっと謙遜にならなければと思うのです。神さまからの光を心にしなければと思います。神さまのみ業に照らされて、私たち人間は知恵も力も存分に用いるものでありたいです。

 この「エクレシア」では、しばらくの間、旧約聖書に目を向けてゆきたいと思っています。



教会員の投稿
■深津 節子
挿絵
「ペトロの信仰告白」
マタイによる福音書16:13〜16(新共同訳)

 「あなたはメシア、生ける神の子です。」これがペトロ信仰告白でした。

 これを聞いたイエスは「あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われ、さらに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。・・・わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われたと聖書に書かれてあります。

 この絵で、膝まづいたペトロがイエス様から受け取っているのが、その天国の鍵なのです。

 カトリックの教会では、この岩を「ペトロ(ギリシャ語で岩の意)」としているので、カトリックの聖堂には鍵を持った聖人の像が描かれたり彫刻されたりしていますし、バチカン市国の聖堂は「聖ペトロ大聖堂」なのです。ちなみにプロテスタントではこの岩を信仰告白としています。(久美江)


■安田 志峰

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