2008年2月号 |
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「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」 |
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ルカ22:19(新共同訳) |
教会にはその長い歴史の中で、最も重んじていた事柄があります。それは聖礼典の執行であります。私たちプロテスタント教会においての聖礼典は、「洗礼」と「聖餐」であります。この聖礼典は聖書において内容が明確に示され、そして形ある姿で礼拝の中で行われます。つまり「洗礼」においては水を用い、古い自分が死にキリストの御手(聖霊の働き)により新しい命が与えられる。「聖餐」は最後の晩餐に象徴されるように、主の食卓におけるパンと杯が十字架で裂かれるキリストの肉と血潮を意味し、主の贖いの姿に接し、私たちも主と共に歩むことを意味しているのです。
私たちが所属する日本基督教団も、教団の規則「教憲・教規」の中でこの聖礼典について明確に明記しています。ところが最近、教団内の一部の教会や教職・信徒の中でこの聖礼典の在り方に独自の考えを主張し、洗礼を受けていない人にも聖餐を実施している所があるようです。
教会は時代の変化に伴い、教会形成や伝道の在り方も対応していく必要はありますが、肝心の聖書の言葉を語ること、主の教えに従うことまで変えることは許される事柄ではないと私は考えます。実際、日本基督教団の常議員会は聖礼典執行に関して一つの見解を出し、正しい聖礼典の執行に関し、教会の一致を求めました。
豊田教会も移りゆく社会の中に変わることのない確かな福音を語り、イエス・キリストによる確かな救いを多くの人に伝えていきます。(中西)
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■深津 節子 |
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「5千人に食べ物を与える」 |
マルコによる福音書6:30〜32(新共同訳)
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聖書に書かれている「パンの奇跡」の出来事である。他の福音書にも書かれていて、二匹の魚と五つのパンで五千人を養い、残りが12のかごいっぱいになったとある。
「1日1章」(榎本保郎牧師著)には、こんな風に書かれている。
『私はイエスがこの奇跡を行われるのに、神は無から有を生じたもうであるから、五つのパンは必要ではなかったと思う。しかし、反面、必要であったとも思う。イエスは業をされるとき、必ず私たちの何かをもとめられるかたである。たとえば、カナの婚宴(ヨハネ2)のとき、水をぶどう酒に変えられたイエスは、水がめに水をいっぱい入れなさいと言われた。ラザロが死んだとき、「石をのけなさい」「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と言われた。これは私たちの信仰の鍵だと思う。私たちは石をのけないで、神の栄光を見ようとする。しかし、石をのけることが信仰なのである。・・・中略・・・だからそのパンは自分の持ち分であり、自分に与えられたものであるが、それをイエスにささげていくことによって、祝福が伴い、祝福が伴うことによって神の栄光を拝することができるのである。』
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■安田 志峰
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