移り香のみせる夢
移り香のみせる夢




  梅花、菊花、荷葉に侍従。彼女が好む香りはどれだろう。
 白檀、丁字。それとも沈香?香木をそっと忍ばせた可憐な香り袋の方が好みだろうか?

 いくつもの香りにつつまれて彰紋は思案をめぐらせる。
どんな香りが彼女にはふさわしいだろうか。いくつか調合してみたが、どれも違う気がしている。
もっと清々しい、やさしい香りが似合うだろうか。
 ふと、やさしい面影がよぎる。京の危機を救うために現れた天女、龍神の神子。
ふれたくてもふれられない。清く、そして尊い存在。
 止まっていた京の時は動き出した。八葉に課せられた試練も南の札を残すのみとなった。
 もうまもなく、京は救われる。
それを思うと彰紋の胸のうちにはよろこびと同時にかすかな悲しみが広がる。
 京が救われる。それはすなわち龍神の神子が天へと還ることを意味する。
 どうしたいのか。それだけははっきりとわかっている。
しかしそれを口にすることは出来ないでいた。口にしてしまえば神子に残酷な選択をせまってしまう。
天に残してきたものをすべて捨てて欲しい。自分の手をとってほしい、と。
そして同時に自分もまた、残酷な選択をせまられるのだろう。
己に課せられたもの、肩にかかる責任の重み。十分に承知しているからこそ、足を踏み出せずにいる。
 せめて神子が天へと還っても思い出のよすがにと、香を贈ろうと思い立ったのだが、
どうにも思う通りにはいかなかった。
「彰紋。こちらにいるのかい?」
 御簾の外から声がかかる。兄の声だ。先触れもなくやってきたようだ。
「兄上ですか?どうぞお入りください」
 さらり、と御簾をあげて帝である兄が入ってくる。
「どうだい、八葉としての務めは」
「あとは、南の札を残すのみです」
「そうか……まもなく京は救われるのだな」
 南の札の試練。彰紋が地の朱雀として試される日がやってくる。
「大晦日まで、もうわずかだ。たのむぞ、彰紋」
「はい、兄上」
「時に、彰紋。この香は一体何事だい?」
 くるりと部屋を見まわす兄。床に散らばる香木の数々。部屋に漂う香の香り。
 とっさに答えられない彰紋をみて、微かに笑う。
「どなたか、女性にでも贈るつもりだったのかい?たとえば龍神の神子殿とか」
「……兄上!」
 兄の言葉に顔を赤らめる彰紋。何も言わずともその顔色がすべてを語っていた。
「しかし、神子殿は、よろこばれるのかな?」
「どういう意味でしょうか?」
「贈り物よりも、八葉のおとないを、待っておいでなのではないのかな?
龍神の神子とはいえ、年頃の姫君なのだから」
 兄の言葉に、ふと神子を思い出す。
東宮としての仕事が忙しいのなら、無理に紫姫の屋敷に来なくてもいい。
自分から逢いに行くから、と。そう言ってくれた神子。
「彰紋。そなたが何を考えているのか、わかっているつもりだ」
 いつになく真剣な兄に、彰紋は居ずまいをただす。
「東宮である前に神子の八葉でありなさい。私のかわりはいるけれど、そなたのかわりはいないのだから」
「兄上……」
「そして、八葉であるまえに、一人前の男でありなさい。己の思う道を進みなさい。
私のことは気にせずに」
 ゆったりと微笑む兄。自分のことを気にせず、好きにするといい。
兄はそう言って自分の背中を押してくれたのだ。きっと帝としてではなく、兄としてでもなく男として。
好きな姫君の手をとることをためらってはいけない、と。そう言ってくれているのだ。
「……ありがとうございます、兄上」
「さぁ、神子殿のところへいきなさい」
「はい。行って参ります」
 御簾をくぐる。庭は白く雪化粧。ずっと部屋にこもっていたので気づいていなかった。
「そうか、この香り」
 澄んだ空気の放つ、清々しい香り。あまりにも純粋で清い香り。
これが彼女に一番似合っているのかもしれない。何も飾らない、その美しさが。

 機会をつくって告げよう。
 天女の―あなたの羽衣を、僕にください、と。
駄目だと言われたたら、その羽衣にすがりつこうか。
 彼女とともに天へ還るために。



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