大切な君のために
大切な君のために
今日の新聞社はいつもと違い、甘い香りが漂っていた。
女性社員はあちこちで顔を合わせはこそこそと囁きあっている。
男性社員もどこかそわそわと落ち着かない様子だ。
今日の日付は2月14日。どことなく浮ついた空気になるのは仕方のないことなのかもれないと
ベルナールは思った。
書いていた原稿の手を止めて顔をあげると、つい玄関に目が向いてしまうのに気がついて苦
笑する。結局、自分もそわそわしている1人なのだと。
去年はこんな気持ちはなかった。
いつも通りの1日を過ごしていたはずだ。
「あの、ベルナールさん」
女性社員3人組が机のそばにやってきた。
「私たちの感謝の気持ちです。チョコレート、受け取ってもらえませんか」
綺麗にラッピングされた箱が3つ差し出される。
「・・・ごめん。受け取れない」
女性社員たちの気持ちはありがたいと思う。去年までの自分だったら笑顔で
受け取っていただろう。
でも、今年は違う。
「大切な人がいるんだ。だから、ごめん」
自分の気持ちに嘘をつきなくなかった。
欲しいのはたくさんのチョコレートじゃない。
ひとつなのだ。
「何だ、何だ?社内一の有望株だったベルナールが、とうとう身を固める決心したのか?」
同僚から、からかいの声がかかる
「そういうわけじゃないよ。でも大切に想ってる人がいるのは本当だ」
誰よりも幸せになることを願っている、かけがえのない少女が。
「ベルナールさん、お客さまですよ!」
これ幸いとばかりに同僚の輪の中から逃げ出した。
玄関にはアンジェリークがいる。
「いらっしゃい、アンジェ」
「こんにちは、ベルナールさん」
アンジェリークはピンクのリボンがかけられた箱を持っていた。
「これをベルナールさんに渡そうと思って」
差し出された箱を、ベルナールはためらうことなく受け取る。
「ありがとう。嬉しいよ」
欲しかった、たったひとつのチョコレート。
「アンジェ、ちょっと外へ出ないか」
ベルナールはアンジェリークの手を取って、新聞社を出る。
向かった先は磐石の大地。
考え事をしたいときにベルナールはよくここへ来た。
「アンジェ、この箱を開けてもいいかな?」
「ええ、もちろんです」
リボンをほどいて箱を開ける。手作りの、ころころと丸いチョコレートが並んでいた。
1つつまんで口の中に入れる。
ほろ苦いココアパウダーに包まれた、とろけるように甘いチョコレート。
ほんのりと香るのは混ぜられた果実酒だろうか。
「うん、おいしい。ありがとう、アンジェ」
「よかった」
アンジェリークの顔がほころぶ。
大きな使命を背負って大変だろうに、こうして自分のために時間を作ってくれることが、
ベルナールは嬉しかった。
ほんのひとときでもいい。彼女が安らげる場所を作ってあげられる、幸せ。
「はい、おすそわけ」
チョコレートを1つ取って、アンジェリークの口元へ持っていった。
そっと開けられた彼女の唇にチョコレートが触れる。
こうして流れる甘い時間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。
彼女が幸せになることではなく。
彼女を幸せにできることを願う。
ベルナールはアンジェリークの耳元でそっと囁いた。
「来月のお返しは期待していてね。僕の大切な、可愛いアンジェ」
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