ひとしずくの願い
ひとしずくの願い
鎌倉に来て十日あまりが過ぎた。何もすることができずただ無為に流れていく時間。
不安が胸のうちに巣食う。あせり、疑心。負の気持ちが望美の心に積もっていった。
望美の心を現したかのように外は雨が降っている。
細かな雨にけむる庭を眺め、小さな溜め息をついた。
「先輩、ちょっといいですか?」
廊下から譲が声をかけてくる。
「九郎さんが部屋にいないんです。先輩知りませんか?」
「九郎さん?」
福原での戦からずっとふさぎ込み、ひとりで部屋に閉じこもっていることが多かった九郎。
たまに外へ出ても剣の稽古をしているだけだ。
「雨が降ってるのに外に出たんでしょうか」
「私、見てくる」
譲の制止も聞かず、望美は外へ飛び出した。九郎はどこかへ行ってしまったのではないか。
自分達を置いてたったひとりで。
そんな不安が望美を駆りたてる。
九郎はすぐに見つかった。門の前でひとり立ちつくしていたのだ。
どれだけ長い間そうしていたのか、服も髪も濡れそぼっている。
「九郎さん……」
「待ってるということがこれほどの苦痛だとは思わなかった……」
振りかえらずに九郎は言う。
兄・頼朝に出した書状。会いたい。会って話がしたい。ただそれだけの願い。
その小さな願いがかなう事を待っているのだ。
「俺が敗軍の将だから…会ってくださらぬのか……」
「そんな、たった一回負けただけで」
「たった一回、なんて言うな。その一回の負けで命を落としたものがどれだけいた」
福原での負け戦。平家の罠にかかり多くの兵を失った。それだけではない。
九郎にとっても望美にとっても剣の師であり八葉でもあるリズヴァーンを失ってしまった。
彼はまだ帰ってこない。もう二度と会うこともないのだろう。
戦とはそういうものだとわかっていても。失った命の重さに、責任の大きさにつぶされそうになる。
九郎は今でも己を責めつづけているのだろう。
「九郎さん……何故戦うんですか?」
九郎の背中に問いかける。
「兄上のためだ」
「だって……頼朝さんは、九郎さんのこと、いらないって言ってるじゃないですか!」
負けた事のない将などほとんどいないのに。
宇治川で、三草山で、命をかけて戦ってきたのは九郎なのに。
一度の負け戦、それだけで九郎を切り捨てたのだ。
「なのに…何で…こんなに……」
傷ついてまで、兄のために戦うのか。
「それ以上何も言うな」
「九郎さんっ」
「何も…言わないでくれ」
九郎がゆっくりと振りかえる。頬をつたう雨がまるで涙のように見えた。
「俺には戦うことしかできない。戦って勝たなければ兄上のお役には立てないんだ」
「そんなの、間違ってる。九郎さんは戦のための道具じゃない」
叫ぶ望美の瞳から涙が溢れ出した。誰のために流す涙なのかわからなかった。
ひとりきりになっても泣く事のできない九郎のためなのか。
失ったものの大きさにつぶされそうな自分のためなのか。
「頼朝さんが必要ないって言っても、私には九郎さんが必要なんです…
だって九郎さんは私の…白龍の神子の、八葉なんです」
だから…どこにも行かないで。私をおいていかないで。
震える声で望美は告げた。これ以上誰も失いたくない。
「私が……守るから……」
この先どんな未来が待っていようと、守ってみせるから。
「望美…俺はどこにも行かない。お前を置いていったりしない。だからもう泣かないでくれ」
そっと頬にふれてくる指はとても冷たかった。
それでも、涙をぬぐう九郎の手はとてもやさしかった。
「すっかり冷えてしまったな。戻ろう。風邪をひく」
うながされて望美は歩きだす。前を歩く九郎が、雨の中に消えてしまいそうで手をのばす。
驚いたように九郎は振りかえり、そしてしっかりと望美の手を握りかえした。
戻る