桜
桜
「少丞殿」
呼ばれた当人は気づかぬまま文書に目を落としている。
しかしそれは熱心というには程遠く、心ここにあらずといった様子だ。
「少丞殿、藤原少丞殿」
三度目で鷹通はようやく呼ばれていることに気がつき、顔をあげた。
困り果てた顔の部下と目が合う。
「・・・すみません。何でしょうか」
「太政官へ奏上する文書が出来ましたのでこちらの確認とご署名をお願いいたします」
手渡された文書に目を通し、間違いがないことを確認して鷹通は自分の署名を書き入れた。
「ありがとうございます」
部下は近くにいた者に文書を渡し、改めて鷹通のほうへ向き直った。
「少丞殿。少し外でも歩いていらしたらいかがですか」
「いえ、仕事中ですので」
「今は少丞殿のお手を煩わすようなものもございませんし、なによりお疲れのようですから。
外はよい風が吹いておりますので気分転換によろしいかと」
「・・・そうですね。すみませんが少し席をはずします。何かあったらすぐに呼んでください」
「はい。いってらっしゃいませ」
鷹通は治部省を出ると、深くため息をついた。
勤務中に考え事をしていて仕事に手がつかないとは、なんという失態だろう。
(原因は・・・わかっている)
今朝、鷹通は内裏へ上がる前、藤姫の館へ赴いた。
藤姫に話しておきたいこともあったし、神子から外出に誘われるのではないかという淡い期待もあった。
ところが神子の部屋には先客がいた。外に神子の涼やかな笑い声が聞えてくる。
神子と話をしているのは地の白虎、友雅だ。
いつもなら話が一段落した頃合いを見計らって部屋を訪ねたであろう。
しかし鷹通は胸のあたりがもやもやするのを感じて部屋へと足が向かなかった。
そして挨拶もしないまま逃げるようにして内裏へとやってきたのだ。
今思えば理由は簡単だった。友雅と楽しそうに話をしている神子の姿を見たくなかったのだ。
駄目なのだとわかっている。わかっているのに感情が押さえられなくなる。
ほがらかに笑うその顔を自分にだけ向けて欲しいと願ってしまう。
(私はなんと不謹慎なことを考えているのだろう)
彼女は龍神の神子。この京を守る尊き存在。対して自分は八葉の一人に過ぎない。
そもそもこんな考えを持ってはならないのだ。
(それでも・・・)
鷹通は足を止める。視線を上げた先には、桜。
はかなげでもあり、芯が強そうにも見えるその桜に神子の姿が重なる。
「神子殿・・・」
「おやおや、仕事熱心な治部少丞殿が花を愛でているとはめずらしい」
後ろからからかいを含んだ声がかかる。鷹通は振り返った。
「友雅殿こそ宮中の花を愛でるのにお忙しいのではありませんか」
ついつい口調がとげとげしくなる。
「きみからそんな言葉が返ってくるとは思わなかったよ、鷹通」
友雅は優雅に首をすくめてみせた。
「それにしてもそんな物憂げな瞳で桜を見つめるとは。きみの想い人はそんなに桜に似ているのかい?」
「なっ・・・。そのようなことは・・・」
「そういえば誰かがこう言っていたな。神子殿は桜のようだ、と」
「友雅殿!」
「おやおや、どうして怒るんだい?」
「戯言もほどほどになさってください。神子殿にそのような感情を持つなど・・・」
「鷹通、きみは物事を堅く考えすぎじゃないか。神子殿のことを好ましく思わない八葉などいないのだよ」
「それとこれとは・・・」
「似たようなものだよ、鷹通。それから神子殿がきみのことを気にかけておられたから会いにいっておいで」
「神子殿が?」
「今朝もね。神子殿を安心させるのも八葉の務めだよ。それではね」
友雅は鷹通の肩を軽くたたくと去っていった。
神子が自分のことを気にかけてくれていたことは嬉しいことだ。
もしかしたらと期待する自分と思いあがってはいけないと厳しく戒める自分がいる。
(私は・・・どうしたらいいのだろうか・・・)
風が吹き抜け、桜を揺らす。答えはないのだろうか?
鷹通はもう一度桜を見上げた。そして思う。
もしあるとしたら、知っているのはこの桜だけかもしれない、と。
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