ぬくもり
ぬくもり
もう少し。もう少し、我慢しなきゃ。
望美は必死で自分に言いきかせた。
本日は日曜日。休日だというのに、生徒が学校に集まっている。
二年生にとって今日は嬉しくもない模試の日だ。
望美もまた、他のクラスメイトと同様に、模試を受けていた。
しかし、それはふいにやってきた。
午後最後のテスト。国語の問題。他人にしてみればなんの変哲もない、古典の問題。
しかし望美にとっては、つらい記憶を呼び覚ましてしまう、問題文。題材は平家物語の『那須与一』だ。
震えが止まらなかった。自分に必死で大丈夫だ、と言い聞かせ何とか問題を解く。
テスト終了のチャイムと同時に教室にざわめきが満ちる。
「やっと終わったよ。ねぇ望美、この後どっか行こうよ」
クラスメイトの一人が話しかけてくる。しかし、望美は答えない。
「望美?どうしたの?顔真っ青だよ?」
「…うん。ちょっと…調子悪くて…」
そう告げるので精一杯だった。
「ごめん……私、もう帰るね」
そう言うと望美は筆記具を片付けて席を立った。
もう、大丈夫だと、思っていたのに。
小さく呟いた。
異世界・京で過ごした日々。死と隣り合わせの戦場を、生き抜いて来た。
平穏な日々に戻り、忘れかけていた。そのまま忘れていたかったのかもしれない。
夢でも、幻でもない。一度、失われてしまった温もり。もう二度と失いたくない。
「先輩?もう終わったんですか?」
「譲……くん……」
朝、弓道部で練習がある、とは聞いていたがここで逢うとは思ってもみなかった。
ずっと我慢してきたけれど、もう無理だった。望美の瞳から涙が溢れ出す。
「先輩?どうしたんですか?なにかあったんですか?」
優しい声。とてもあたたかい、ぬくもり。
「何でも、ないよ。ごめんね」
無理矢理笑顔をつくる。
「何でもないってことはないでしょう?俺でよければ話を聞きますよ?」
「ちょっと……思い出しちゃっただけ。京でのこと」
譲もまた、望美と一緒に異世界に流された。すべてが終わり、共に帰ってきた。この世界へ。
譲は覚えていないのだろう。彼が、その命と引き換えに望美を救ったことを。
「兄さんの、ことですか?」
「違うよ。将臣くんのことじゃない。譲くんのこと」
「俺の……?」
「ちょっとだけ、悲しい事。でも、もう大丈夫」
一度は逆鱗を失い、絶望したこともあった。なんとか逆鱗を取り戻せたおかげで、いまの自分がある。
あのまま譲を失っていたらきっと今みたいに笑ってはいられなかっただろう。
取り戻したぬくもり。今もずっとそばで感じることができる。
思い出はつらいことばかりではない。楽しかったこと、うれしかったこと。たくさんある。
「ねぇ、海に行こうよ」
唐突に望美は言った。
「え?今から、ですか?」
「そう。それから、ひさしぶりに、譲くんのご飯が食べたいなぁ。ドリアとか」
「……仕方のない人だなぁ……いいですよ、行きましょう」
「ほら、早く」
望美は譲に向って手を伸ばす。ためらいがちに乗せられた手をしっかりと握りしめた。
もう二度と離しはしない。
その想いを伝えるために。
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