舞扇
舞扇




 あまりの室内の暑さに、夜風にあたろうと将臣は部屋から出る。
昼間は容赦なく太陽が照りつける熊野も、さすがに夜ともなれば少しは涼しくなっている。
 涼を求めて廊下を歩いていると庭の池に程近いところでだらしなくねそべっている男を見つける。
「こんなところにいたのか、知盛」
「有川か。お前も涼みにきたのか?」
「ああ。ホント暑くてかなわねぇよ」
 将臣もまた、知盛の横に寝ころがる。床はひんやりとしていて気持ちがいい。
「お前、夜になると元気だな」
 昼間は暑いだのだるいだの言って部屋から動こうともしない。外に連れ出すのも一苦労だ。
夜になれば涼しくなるせいか、ひとりで部屋を抜け出しでは酒を飲んでいる。
今もまたしっかりと酒と肴を用意してひとりで飲んでいたようだ。
 将臣は肴をひとつつまむとひょいと口にいれる。
海が近いせいもあって魚介類は新鮮でおいしかった。京ではそうはいかない。
「にしても、今日は驚いたぜ」
 一刻も早く熊野本宮に行かなければならないというのに、妙な怪異のせいで足止めされているのだ。
足止めされているのは自分達だけではない。同じように熊野を訪れていた望美もまた本宮に行けずにいた。
 本宮に入るためには、どうあっても怪異を静めなければならない。
将臣は望美と知盛と一緒に怪異について調べているのだ。
 途中で立寄った速玉大社で、急病の白拍子の代理で望美が舞を披露することになった。
以前はあんなことはできなかった。こちらの世界に流されてから覚えたのだろう。
望美のことをよく知っている自分ですら別人に見えてしまうほど、望美の舞は美しかった。
 それだけでも驚きなのに、その後望美と知盛が舞をひとさし舞ったのだ。
もともと貴族の平家だ。舞が出来たとしても不思議ではない。
だが、知盛が自ら進んで舞を披露するなど、珍しいこともあるものだと思った。
「ホントお前達芸達者だよなぁ。あいつ、いつの間に覚えたんだろうな……」
「兄上はよほどあの女にご執心とみえる」
「その兄上ってのやめろって言ってるだろ。だいたい、何だよそれ」
「あの女から、目が離せなかったのだろう?」
 確かにそうだった。望美が一人で舞っているときも、知盛とふたりで舞っているときも。
自然と目が追いかけていた。吸い寄せられるように、視線がそらせないでいた。
気づかれているとは思ってもいなかった。慌てて弁解めいたことを口にした。
「別にご執心ってわけじゃない。あいつは、幼なじみだからな」
「まぁ、そういうことにしておいてやろう」
 知盛はそう言うと杯に酒を満たし、一息にあおる。空になった杯に再び酒を注ぐと、将臣に差し出す。
将臣は黙って受け取るとこちらも一息で飲み干す。
 二人とも黙り込んだまま、ただ酒を飲む。しばらくして先に口を開いたのは知盛。
「お前がいらないというのならば、俺がもらおうか」
「は?何をだ?」
「……あの女」
 知盛はゆっくりと体をおこす。どこから取り出したのか、手には舞扇を持っている。
「いい女だ。あんな女、滅多にいない」
「おいおい、酔ってるのか?」
「この程度の酒では酔わない。俺を酔わせてるのは、あれだな」
 知盛は手にした扇で空をさす。そこには美しく輝く月があった。
「俺を惑わせ、狂わせる」
 扇をひらくと、知盛はそのまま池へと投げる。扇は水面にうつる月の、わずか手前に落ちる。
 くっ、とのどの奥で笑うと、知盛は闇の中へ消えていった。
将臣はよびとめることもできないまま、ただ見送ることしかできなかった。

 静かにゆらめく水面。波にゆられ、舞扇は月に近づく。
扇はかすかに月の影にふれると、満足したようにゆっくりと水底に沈んでいった。



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