銀杯の雫
銀杯の雫
見上げた空は、とても美しかった。
満天の星と白く輝く月に導かれるようにヒュウガはテラスへ出た。
手には酒瓶とグラス。
ひとりで飲むつもりでサルーンへ来たのだが、月があまりに美しかったので、外で月見酒を楽しむことにしたのだ。
テラスに出て、ヒュウガは足を止めた。誰もいないと思っていたテラスに人影が見える。
こちらからは背中しか見えないが、テラスに置かれた椅子に悠然と腰掛けている。
月明かりで、横のテーブルにはティーセットが置かれているのが見て取れた。
人の気配を感じたのか、ゆっくりと人影が振りかえる。
「こんな時間にあうとは奇遇ですね、ヒュウガ」
「ニクスか。なにをしている?」
もう深夜をまわろうという時刻だ。自分以外には誰も起きていないと思っていた。
「月があまりにも美しいので眺めていただけですよ。おいしいお茶とともに、ね」
手にしたティーカップを軽く持ち上げるとニクスは微笑を浮かべる。
「ご一緒に、いかがですか?」
「いや。遠慮しておく」
ヒュウガは持っていた瓶とグラスをテーブルに置く。そしてニクスの隣の腰掛けた。
「なるほど、そういうことでしたか」
それだけ言うと、ニクスは視線を空へと戻す。
テラスからは、月がとてもよく見えた。しばらくの間、二人とも黙りこんだまま月を見ていた。
どのくらいたったのか、ふいに隣から忍び笑いが聞えてくる。
「どうかしたのか?」
「いえ。あなたがお酒が好きな事は知っていましたが、これほど強いものがお好みだったとは、意外でしたので」
ヒュウガは瓶を手に取る。ラベルに書かれている名前は度が強いことで有名な酒のものだ。
「普段はあまり強いものは飲まん」
そう言うと、グラスに酒を注ぎ一息にあおる。そして口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「時には素面では眠れない夜もある。それだけだ」
あまり誉められたことではないと、わかっている。どんなに強い酒を飲んだところですべてを忘れられるはずもない。
それも十分承知していた。
心に残る苦い思い出は、忘れていいものではない。しかし、時にはひとりで抱え込むにはつらい夜もあるのだ。
かつての仲間とは、夜通し話すこともあった。
しかし、今は。
決して今の仲間を信頼していないわけではない。今はまだ何も知らない仲間達に話しをする時期ではない。
いずれ必ず、己の過去と向いあわねばならない時が来る。その時になって話しても遅くはない。そう感じていた。
何もかも、あらいざらい打ち明けてしまえば楽になれるのかもしれない。そう思うこともある。
しかしそれでは仲間達に己の過去という重い荷物を背負わせてしまう。
逃げ出すわけにはいかないのだ。
「その気持ち、わかりますよ」
穏やかにニクスは微笑む。
「私にだって、眠れない夜もありますから。今宵のようにね」
きっと自分だけではない。この陽だまり邸に集まったものたちは皆、何かを
―おそらくはつらい過去を―背負っているのだろう。
だからこそ、こうして導かれるようにして出会ったのだ。
つらい過去に、そしてこれからの未来に立ち向かうかめに。
ニクスが手にしていたカップを差し出してくる。中身はからになっていた。
「私にも、一杯いただけますか?」
「ああ」
差し出されたカップと、自分のグラスに酒を満たす。
「乾杯でもしましょうか」
唐突にニクスが言う。
「一体何に?」
「そうですね……私達が出会えた奇蹟に」
ふっと口元をほころばせ、ヒュウガは黙ってグラスを差し出す。
かちん、とグラスのふれあう音が、かすかに響いた。
それはきっと、凍りかけた心が、とけはじめた音なのだろう。
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