銀月
銀月
雪見御所は喧騒につつまれていた。近く源氏との戦がおこる。その出陣の支度をしているからだ。
自分もまた将として戦に征くのだから何かとやらなければならないことは多い。
しかし今はなにもする気がおきない。喧騒から遠ざかるようにして奥へ奥へと入っていく。
さすがに奥には入りこむ兵もおらず、静かだった。
渡殿で足をとめ、空を見上げる。大きく、そして美しい銀の月。完全に満ちてはいない。
少し欠けた、月。月の姫君は今どうしているだろうか。
十六夜の君。その面影が月にかさなる。
あれから何度も十六夜の月は空へと昇る。しかし十六夜の君に再び逢うことはできないでいる。
これからも、逢うことはできないのかもしれない。
「重衝殿。このようなところにおいでだったのですね」
背後から声をかけられ振りかえる。立っていたのは経正だった。
「配下の者がさがしていましたよ。確認したいことがあるとかで」
「そうですか。ありがとうございます」
「このようなところで何をなさっておられたのです?重衝殿も出陣されるのでしょう?」
「ええ。知盛兄上とともに、生田へ。経正殿は?」
「私は還内府殿と、三草山へ」
今度の源氏との戦はおそらく激しいものになるだろう。
そうでなくても戦とは激しくそして無情なものだ。いつ命をおとすか、わからない。
「……これで、お別れかもしれませんね」
ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。ずっと思っていたことだ。
戦に征くたびに。口にする事はなかったけれど。
「何をおっしゃいます、重衝殿」
「私には、何の未練もない。死してなお、戻ってくる気はないのです」
経正は一度命を落した。未練を残して死んだ為、戻ってきてしまったのだ。父清盛の手によって。
救いのない、悲しい存在。そうはなりたくない。
ふっと、経正の表情がやさしくなる。
「さすがはご兄弟ですね。知盛殿も同じことをおっしゃってましたよ」
「私と、兄上は違いますよ」
平家の将として自分に優る兄。しかしうらやましいとは思わない。
なぜなら、戦はあまり好きではないから。
平家の将として生まれた以上、戦から逃れることはできない。人並以上に鍛錬もした。
戦場では己の手を血に染めてきた。そうしなければ、己がたおれるからだ。
そして、許されざる罪を犯した。これ以上、罪を重ねてはいけないのだ。
見上げた月は、穢れなく、美しい。穢れた自分とは正反対だ。
「月が、美しいですね。我々と違って」
誰にでも優しく、同時に決して手の届かない、美しい月。
「私は言葉しか持たない。月と話すにはあまりにも、遠い」
「重衝殿……」
月に面影のかさなる、美しい姫君。血塗られた手では、もう触れる事すら、許されないのか。
たとえ魂だけの存在となっても、罪を犯した自分では、月に行くことなど出来ない。
行く先は、暗くそして冷たい闇なのだろう。
ふと、隣の経正が、じっと己の顔を見つめている事に気がついた。
「おやおや。私をさがしているものが、いるのでしたね。行ってやらねば」
わざと軽い口調を作った。少し語りすぎてしまったかもしれない。これも、月のもつ力だろうか。
「重衝殿。どなたか月に逢いたい方でも?」
経正の問いに、重衝はふっと口元をゆるめた。
「逢いたいのは月自身、ですよ」
ひらひらと手を振り、経正を残して渡殿を渡る。
そう、逢いたいのは月の姫君。
もう一度逢えるのならば、命を失ってもおしくはない。これほどまでにひかれているのだ。
もう一度、月を見上げる。
やさしい面影が、見えた気がした。
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